雲雀山と中将姫
2016/05/31
単独

11時10分〜14時35分
3時間25分
先日5月28日に宇陀市の菟田野宇賀志日張山青蓮寺に中将姫を尋ね、日張山と覗ヶ岳、奥倉山と歩いた
和歌山にも和歌山県有田市糸我の得生寺とその裏山雲雀山に中将姫の話が残りその史跡がある
急に思い立ち得生寺と雲雀山付近を楽しんだ
  
和歌山の民話を書かれたページに

いまから千二百五十年も前のこと。奈良の都に、右大臣をつとめる藤原豊成がいた。
子供がない豊成は、妻と二人で長谷観音へ「どうか子供が授かるように」と願がけに通いつづけ、満願の夜、二人そろって美しい観音さまの夢をみた。
そして一年後に女の子が生まれた。琴が上手な、可愛いい女の子だったが、五歳のときに母親がなくなり、照夜の前という新しい母親を迎えると間もなく、豊寿丸という男の子が生まれた。
女の子は、琴の腕前を聞いた聖武天皇から「中将姫」の名を許された。  悲劇はここから始まる。
権勢を誇った豊成だったが、照夜の前の、中将姫への嫉妬までは気がつかなかったのだろう。
照夜の前の悪だくみが続いた。 桃の節句の日、照夜の前は、ごちそうの中に毒を入れた。
ところが中将姫は食べず、豊寿丸が食べ死んでしまった。すると以前にもまして、照夜の前は中将姫の命をねらう。
中将姫はとうとう家来と家を逃げだした。着いたところは、豊成の狩場、雲雀山だった。  
糸我の里に小屋をつくった中将姫は、山の頂上の石を机に、写経に励んだ。  ところがある日、ついに刺客に襲われた。
執念深い照夜の前が、差し向けた伊藤春時だった。中将姫は観念して手を合わせた。
だが刀を振り上げた春時は、姫の背後に仏の姿をみた。全身がしびれてしまった。
 「あなたは長谷観音の生まれ代わり。これからは、わたしが姫をお守りします」
 姫の着物の柚を切り落とした春時は、自分の足を突いて刀に血をつけ、都へ帰って上司の国岡将監に報告した。
しかし、着物だけで照夜の前を信用させることができるだろうか。そのとき、中将姫とウリ二つといわれていた将監の娘、瀬雲が胸を突いた。
話を聞いた瀬雲が、小さいころから仲良しだった姫の身代りになったのだった。 
瀬雲の首を、中将姫の袖に包んで照夜の前にさしだした春時は、妻子を連れて糸我に引き返してきた。
そして刀を捨て、名も得生と改めた。 「なかなかに 山の奥こそ住みよけれ 草木は人の とがをいわねば」と、糸我の里の住み心地のよさを詠んだ中将姫だったが、翌年の正月、春時が急に亡くなると、人の世のはかなさを知り、以前にもまして写経に励んだ。
一方、奈良の都では、各地の見回りから帰った豊成が、姫のいないことに気がついた。
照夜の前にただすと、よくないことばかりしたので、親子の縁を切って追い出したという。
悲嘆に暮れる豊成に、将監が熊野詣でをすすめた。そして途中、雲雀山へ豊成を案内し、二人を対面させた。
 ときに中将姫は十五歳。豊成とともに都へ帰った。照夜の前は家を出て行方がわからなくなっていたが、身代りとなった豊寿丸と瀬雲のことが忘れられない姫は、夢枕に立った尼に「蓮の茎で曼陀羅を作りなさい」と告げられたことで、全国から蓮を集めて一丈五尺(約五メートル)四方の浄土曼陀羅二枚を作り、一枚を糸我の得生寺に納めた。 
すると再び、尼が夢に現われ、「十三年後に迎えにきます。花のうてな(あの世)で会いましょう」という。中将姫は、その言葉通り、十三年後、二十九歳でなくなったという。 
得生寺縁起
得生寺は、熊野古道沿いに有る古刹で、雲雀山はその裏山だが、熊野古道は雲雀山の肩を糸我峠に登り湯浅へと続く
得生寺の駐車場に車を置かせていただき、得生寺の中将姫と伊藤春時夫婦を安置した御影堂に手を合わせ、熊野古道を雲雀山に向かう
  
直ぐに、鹿討坂の立岩に降臨したお稲荷さんを合祀した稲荷神社が有りその横は、熊野古道資料館だ
古道資料館はマアマアのものだが、熊野古道歩きの方達で賑わう
隣の稲荷神社は500年物の楠木が四本有る古い神社だ
  
南に歩けば史跡だらけの熊野古道、とにかく石道標が多い
  
稲荷神社前は、白河法皇の車寄せの地、直ぐに祠が有り登山口にも石柱の案内が有る
登山口
朽ちた看板には、以下が記されていた

雲雀山(ひばりさん)

天平19年(747年)右大臣、藤原豊成の娘として生まれた中将姫は、13歳のとき継母の憎しみに合い、殺害されようとした遭難の霊山である
姫は家士、伊藤春時夫婦に守られ育てられたが、15歳の春、父藤原豊成の熊野詣の帰り、この雲雀山で狩をして計らずも親子の対面と成り 奈良の都に帰られたが、姫はこの三年間に、亡き母親菩提のために称讃浄土経1千巻を写経されその高徳がやがて奈良の当麻寺で、浄土大曼荼羅を織られる事になったのである。 とある

此処からの登山者は少ないのか、すぐは農業用のモノレールが道に通っている
  
登ってゆけば整備も有る登山道で、所処で見晴らしも有る
直ぐに鳥居が出て、その横に石の祠に小さな役ノ行者が祭られている
矢印は下の斜面に有るのかと下りかけるが、踏み跡らしいものも無く、マッいいかと登り返すと、アラ看板の真下に有った
  
道なりに登れば、庵と命号石、阿弥陀が井と案内が出る。50mと有った
  
その分岐横には宝篋院塔があり、明治の中期に中番峠から此処に移されたものと記されている
北朝年号、庚永二年(1343)のものであると書かれている。此処が親子の対面の場所だ
庵に下った
なかなか険路だ。勝手道標が無ければ行きすごしそうだった
 
平らな所が庵跡、名号石は4m程度の岩壁で、史跡が無ければチョットしたクライミングの場所になるだろう、高さ30m程度の斜な岩が有る下だ
 
出会いまで戻り登ると直ぐに行場とかかれ、断層だろうか5m〜10m以上の岩壁が北側にある
岩に添って登ってみた
   
晴らしも良く岩壁は、鳥居付近から続いているようだ
有田平野が有田川とともに美しく見張らせ、その向こうに一等三角点が乗る明神山が見張らせる
その直ぐ上に山頂が出る。
山頂には御本廟があり此処からの見晴らしは最高だ

  
雲雀山には伊藤ヶ嶽の別名が有るようだ。
伊藤夫婦の名から起こった物か??北側から登れば私の力では登れないかの急斜面と岩陵だ
山頂で昼食にすればいいものを、モット涼しい場所をと歩くと、直ぐに農道に出てしまった
マッいいかと農道を糸我峠に向かう
  
朽ちた道標などが有るが一本道だ。巨大な水タンクが有る。ミカンの産地の有田は潅水用に山頂に水タンクが多い
糸我峠に出た。昔は此処に茶店が有り、夏まで保存したミカンを茶店で出したとか
そのおいしさに参詣者は驚いただろうが、保存の利くみかんは酢っぱいものだ
このまま下山もと、万葉の小道と書かれた農道を日本最初のお稲荷さん降臨の立岩まで歩くことにした
  
一度行った記憶が蘇る
鹿討坂上だったはずと急ぎ足で歩いた。900mの距離と書かれていた


鹿討坂の上の舗装坂を登ればその山頂が立岩で祠が出来、謂れのかんばんがった
 
前回は整備が無かったが、綺麗な祠がありその雰囲気がある岩が注連縄と共にある
鹿討坂の旧道の探索も良いが、引き返した

糸我峠から下山してみたかった
糸我峠を糸我に下る

  
少しの間は古道らしいが、東屋が出てその下付近から農道になった
 
案内はバッチリだが、全て熊野に向かっての案内だ。 私のようなへそ曲がりには案内が無い 笑い
糸我王子が整備されているが、稲荷社に合祀されていたが、今は祠が有る


登山口に帰り周回だ
 
稲荷神社横の奥様にお声がけを頂き、茶を頂いた
話せば元会社の同僚との知り合いだ。話が弾みついつい長話だが、ミカンの季節はミカン狩りを無料でさせてあげたり、茶やコーヒーを接待するときがあるという。
私の顔が悪人には見えないと、家内に入れてくださった美人の奥様は中将姫の再来のようだ。
直ぐ先の駐車場に帰ったのが14時35分と11時10分からの3時間25分のハイキング登山だった
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