重山
2012/05/21
ショウタン

総時間1時間45分
由良町の重山は古座川町の重畳山字が違うかさね山だ
重山のある由良の湾には三井造船があり、巨大なタンカーやフェリーが整備される。
美しい湾だが、太平洋戦争末期に戦った海防艦第三十号の激戦の話が涙を誘う場所でもある。
少し先には、白崎海岸と呼ばれる美しい海岸があり、釣りやキャンプ、観光の場所だ
こんな紀伊水道を見下ろす美しい姿の里山に登りたく、金環日食の今日重山に登った

国土地理院の重山山頂には、鳥居マークがあるが、山頂にはお寺がありナカナカユニークな謂れのお寺だ
ウィッキペディアに紹介される

取り付きは、地図波線道の宮の崎側から登った。
この登山口に、海防艦三十号の激戦の様子が書かれた鎮魂の碑が有った


昭和二十年の夏、第二次世界大戦もいよいよ末期となり、本土主要都市は敵機の空襲により焦土と化しつつあった
海防艦第三十号(艦長楠見中佐、以下185名乗り組み)コノ←やく100m宮の鼻の沖合20mの海面に係留し、決死の覚悟で敵機の襲来にそなえていた
 折しも、七月二十八日午前九時、敵グラマン艦上機が来襲、同艦は由良海岸基地および由良町の被害を、食いとめんと孤軍奮闘し、みずからは敵機の攻撃目標になって終日数回にわたり、延べ八十数機の集中攻撃を受け、全艦火の玉となって力投したるも執ような敵の波状攻撃に抗し切れず、マスト折れ、艦橋飛び、弾つきて大火災を起こし沈没した
この戦闘において、艦長以下六十六名は壮絶なる戦死をとげ、その他の将兵もことごとく重軽傷を負った
また、海岸一帯および付近民家十数戸も破壊されまさに筆舌尽くしがたい惨状だった
護国の神と散った戦死者の遺体は戦友達の哀惜の涙のうちに、開山興国寺において手厚く仮埋葬された
ここに祖国の平和と繁栄を信じ勇戦奮闘、鬼神も泣く壮絶なる最期を遂げた六十六勇士の殉国の精神をたたえ波しずかなるこのゆかりの地に碑を建て御霊魂永遠に安かれとその冥福を祈るものである

発起人 由良町糸谷区有志


読むにつれ、戦い戦死した66名の死を無駄にしないための平和な日本を何時までも守りたいものと碑に手を合わせた


コンクリ舗装の小道を登ると直ぐに左手に小さく打たれたテープ場所から、小さな尾根へと取付く
  
山道は険しいが、道の傷みはほとんどなく、汗を流しながら登ると、中腹付近に軽四四駆なら登れそうな道に出くわす
取り付きの小道が此処まで延びているのだろう
由良湾が途中にみはらせるビューポイントがある。
この湾で、戦いが有った事はウソのようだ
山頂に出ると、立派なお堂の白雲山海宝寺、重山千手観音堂がある
由良町教育委員会の説明書きは面白い
 
白雲山海宝寺は本尊千手観音(重山観音)で元は山麓にあった。平安時代、磁覚大師円仁、阿蘇山からの帰り暴風雨に遭い由良港に難を避け、千手観音を本尊として海宝寺を立てた。後に哲仏和尚が西国三十三ヶ所札所を決める日、朝寝をして札所からもれてしまい、朝寝山と揶揄された。それが変化して重山(加実山)と呼ばれるようになったという。
どうやら登った道は裏道のようだ。
お堂付近は、古い五輪塔や地蔵がある
  
二等三角点 鍋山はお堂右手にあり状態はよい
基準点名 鍋山 標高262.61
北緯33°57′44″.9498 東経135°05′36″.0989 
所在地 和歌山県日高郡由良町大字神谷字重山475番地の1
下山は正面の階段から下るが、こちらが表参道のようだ。道は少し広く、手が加えられている

少し下ると魚見台跡があり、雨乞い跡もある
半農半漁の村は、魚の到来や雨乞いの場所として重要だったのだろう
  
整備された道を下ると、又ピューポイントがあり、紀伊水道が太平洋の出口に見晴らせる

遠くにかすかに四国が見えた
車道の手前は民家裏になる
下りきると、小さな広場があり、そこに登山口の看板があった
  
海岸通りは美しく整備されトイレや駐車スペースもある
釣り堀公園もあり人気の釣り場のようだ
美しい和歌山の海岸を代表するこの湾を見下ろす重山は低山だが、一度は登る価値があるだろう
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