語り伝えよう黒河村(くろこむら)

国土地理院発行の基本地形図から九度山町の佛谷、黒河、平の地名が無くなりました
昭和34年を最後に、これらの土地が無人に成ってしまったからです
位置

右手に揚柳の枝を持ち、万民の病苦を救う観音様と信仰されている揚柳観音を奉る、標高1008メートルの「揚柳山」、
又高野の氷室で有ったと言われている、標高988メートルの「雪池山、(ゆきいけやま)」の山麓に位置し、揚柳山を水源とする佛谷川に沿い、
住民が点在していた。
黒河で一番低い佛谷は、近くの久保小学校の標高540メートルとほ同じ高さで、この地域に五軒有りました

これより上流に遡ると事約600メートルに黒河が有ります。ここが黒河村の中心で有ったようで、氏神の「八幡社」、檀那児の「愛染寺」や
阿弥陀堂が建っていました。家も多いときは八軒建っていたようです。
この地区までは自動車で行けます。奥の院まで三キロメートルともっとも奥地の平ら地区は、七.八十年前まで五軒有った家が全て早く移転したと言われるだけに、道は一人が通れる昔のままの道を、杖を頼りに急坂を登らなければ成りません。
この地域は江戸時代の初期に開発されたようで、平らの地名からその事を物語っています
平家の落ち武者の伝説は信じる事は出来ないでしょう。平ら地区は標高750メートル佛谷から1.5キロメートル、標高差が実に200メートル有ります。このような村はきわめて珍しい事です
昭和34年無人となった旧黒河村

江戸時代は北又、柿平、久保、黒河の四ヶ村で北又郷を構成し、高野寺領でした。そのため村の年貢は、山内の塔頭の修理に使われていた
村々で有る事から、「修理領」とも呼ばれています。北又荘の村々の規模を天正19年(1591)の検地帳を検討すると、件数は12〜3軒で米はわずか8斗3升8合、(約140kg)の計算になります。住民6〜70人の主食は米ではなかったのかと疑問です。元和10年(1624)には佛谷に水田
4反歩記録されています。佛谷川(黒河川)に沿って石垣を積んだ水田跡が多く見られます

平地区は大正七年に黒河村地区は大正11年から無人となり、残ったのは佛谷の三軒と滝の又の一軒、ねたの尾の五軒、が隣保組を組織し
大戦中黒河を守ってきました。明治時代になって、政府は強制的に神社を統合しました。大阪に嫁に行った91才の方は、「私は平地区の出身です。氏神様がなくなった、大正時代の初め頃、五軒の家が申し合わせたかのように住み慣れた平を後にした」と話してくれました



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