高野街道、京大阪道
学文路から弁天岳
2014/06/15

1/200000

コースタイム
学文路駅08:15-刈萱堂08:30-第三の地蔵09:07-第四の地蔵09:30-第五の地蔵10:05-
第六の地蔵10:50-黒石11:13-赤い橋12:18-弁天岳14:28
下山
弁天岳15:10-女人堂15:30-小休止-極楽橋駅16:45
高野街道と名がつく古道は多いが、高野七口に出る京大阪道は最も栄えたという
熱い梅雨の最中に、南海電鉄学文路駅から極楽橋に歩き、弁天岳にバリエーション直登して山頂から、女人堂に下り旧不動坂を極楽橋まで下って、学文路駅に電車で帰った

今回はじめて歩いてみて、橋本市内は道標が完備されているが、九度山町、高野町と登るに連れ、道標はなくなり、このルートで良いのかと地図と睨み合った。極楽橋駅まではオール車道で当時の感じは薄いが、それでも古道沿いに有る地蔵や史跡はその雰囲気を残す
国土地理院地図に要所の場所を書き込んでみました
先ず、学文路駅から河根(かね)までのルートです


国土地理院の地図には小さな道は反映されていませんが、橋本市内は完全な道標が有り安心だ
学文路駅から東に北側の歩道を歩くと海堀歯科前に石柱道標が有りその前の道を渡り京大阪道へと入った
大きな石柱道標は、堺から13本建てられた石柱だ
  
学文路駅                               三里石柱道標                新旧の石標
取り付けば橋本市内は道標や埋め込み板で案内が行き届いている
 
石童丸の話の中の千里の前泊まった、玉屋屋敷跡を見損なった
案内に従って登れば刈萱堂の西光寺が出る。
西光寺には、石童丸の母、千里の前の墓があり、石童丸の話から有名になった。

石童丸の話

石童丸の話は高野聖や浄瑠璃、芝居等で全国に広まった。

苅萱道心は、もと加藤左衛門繁氏(かとう さえもん しげうじ)といい、平安末期(十ニ世紀後半)、筑紫(つくし)の国(福岡県)の領主でした。
繁氏は、妻桂子(かつらこ)と共に、平穏に暮らしておりましたが、父の旧友朽木尚光(くちき なおみつ)の遺児千里(ちさと)の不幸な境遇に同情し、自分の館に引きとったことからこの悲劇が始まりました。
あるとき、表面は仲睦まじい二人の女性の本心を見抜いた繁氏は、わが身の罪の深さに驚き、家も地位も捨てて京都に上り、はじめは法然上人(ほうねんしょうにん)の弟子になりました。その後高野山に登り、蓮華谷(れんげだに)に庵(いおり)をむすび、苅萱道心と称して、修業の生活に入りました。
繁氏の出家直後、千里が一子を出産しましたが、その子には父の幼名をとって石童丸と名付けました。
石童丸が十四歳になったとき、繁氏が高野山で出家しているという噂を耳にし、まだ見ぬ父に会いたい一心から、母と共に高野をめざして急ぎました。
ようやく山麓学文路の宿までたどりつきましたが、そこには”女人禁制(にょにんきんぜい)”というきびしい山の掟(おきて)がたちふさがっていました。
石童丸は、母を宿に残し、一人で山に登って父の行方をたずね歩きました。たまたま「無明(むみょう)の橋」の上で一人の僧と会いました。
石童丸の話を聞いた僧の顔色が一瞬変わりました。この僧こそ、苅萱道心その人だったのです。しかし浮世を捨てて仏門にはげむ繁氏には、親と名乗ることさえも許されず、「そなたのたずねる人は、すでにこの世の人ではありません。」といつわって石童丸を母のもとへ帰しました。
学文路に戻った石童丸を待っていたのは、母千里がわが子の帰りを待ちわびつつ急病で亡くなったという悲しい知らせでした。
悲しみにうちひしがれた石童丸は、再び高野に戻って苅萱道心の弟子となりましたが、生涯父子の名乗りをすることはありませんでした。

学文路刈萱堂保存会からコピー

六地蔵と石標

京大阪道には、江戸時代、堺から高野女人堂まで13基の石柱道標が設置された。
又、橋本、九度山、高野町に旅の安全を祈願して六つの地蔵が安置された。地蔵は子安地蔵と成り今も地元民に祀られている
道標通り歩く、西光寺から見る紀の川平野は最高に美しいが写真はない
西光寺から河根までの間にすごい数の地蔵がまつれれていた。
 
載せればきりがないがどの地蔵も花が美しく供えられていた

 
道が分岐するところには石標や埋標が設置されているが、九度山町、高野山町と進むに連れボランティア道標が増えてゆく
13基石標とは別にも道標が有るが字は読みにくい
 
埋標の有る分岐
第三の地蔵が立派に祀られている。
 
第三の地蔵は九度山町河根にある
一休みしてゆめさきトンネル前を横切り硯水を探す

硯水の有る所の小字は、硯水というと地元民の話だが硯水の井戸はうっかりすると通り過ごしそうだ。
右手下に木に囲われてある
 




広い道を横切り第四の地蔵が有る河根峠に向かうが、地理院地図にはこの道は反映されていない
  
河根峠から急坂を下る。
その下り口に第四の地蔵が祀られている
ここから鋭角に曲がり細い道を河根丹生神社へと下る
  金網に案内地図が有る
 
河根丹生神社と日輪寺は同じ敷地内に有り下ると本陣、中屋旅館が出る
 

河根小中学校手前に、本陣だった中屋旅館が立派な乳門と共に現存する
門は痛みが激しいが、正面には綺麗な暖簾が掲げられその雰囲気を残す
この中屋旅館で日本最後の敵討をした赤穂藩士、村上兄弟一行七人が、旅館二階の上段の間で計画をねった所だ
 

丹生川に掛かる橋を千石橋と呼ぶ、橋横に九度山町史跡と成った二里石柱道標が建っている

 二里石柱道標
 
さあ後八キロだが、丹生川を渡った所から急坂が始まる
渡り切り右か左か道標を探していると、川向うから右だ右だと地元女性が手をかざす
親切な住民が多い九度山町だ
 
コンクリの急坂を登ると作水の村に出て道横の第五地蔵にお参りする
 
地蔵の裏に小さな堀があり金魚が可愛く口をパクパクと寄ってくるが、与える餌がない
今日はじめての休憩だ。
プリンを食べて元気モリモリだ
この付近は案外車の通行が有る
歩き始めると右手に町石道の尾根が見え、雨山ピークが赤い鉄塔とともに見晴らせる
 
読図はするが、どのコースが高野街道かわからない。
急に道が広くなり、左手のピーク向こうの破線道ではないかといささか心配になった
この付近は本当に古道マークがない
心配しながら歩くとその雰囲気が出だし、道が細くなってきた
 
少し安心だ。桜茶屋だろうと見当をつけた。廃屋ばかりの道沿いに、第六地蔵が出たが、第六地蔵は痛みが激しい
道沿いはほとんど廃屋だ
 
珍しい郵便ポストが廃屋に取り付けられていて、現在も生きているようだ
このポストから記念葉書を出すのも面白いだろう
さあ最後の敵討の場だ。マダカマダカと歩くと小岩の横にその案内が有った
第六地蔵から一キロ足らずだ
此処で日本最後の敵討が行われた この横の付近を黒石と呼ぶ

黒石は、日本最後の「高野の仇討ち」が行われた場所だ。明治四年二月三十日村上兄弟七人が、この黒石で仇の西川一味を待ち伏せて仇を討った、明治六年二月「仇討ち禁止令」が出され日本最後の高野の仇討ちとなつた。


しばらく歩くと少し分かりにくい右手奥に西川一族の殉難七士の墓がある。


その先で、八葉庵と言う建物が出る
少し下りかけると、4つの石柱が並んだ一里石柱道標が出る
  
雰囲気の良い神谷集落へと下る
とにかくこの付近は道標が少ないが、モウ地理院地図で極楽橋に向かおう
昭和天皇がご成婚された記念碑が道標を兼ねている
 
村中に元白藤小学校が災害避難場所として使われている
白藤小学校とは??少し疑問に思ったので、村人に尋ねた
西郷地区の小学校だった白藤小学校は神谷に有るが、他の地区の方が神谷小学校では我が村の名が無いと反対して、庭にあった白い藤から白藤小学校の名がついたとか、今もその藤棚があるが、何代目かだそうだ
 
面白い橋の上を通る。下には南海高野線が走る。トンネル手前に場内信号がある
さあ極楽橋は近い


赤い橋を渡ると右手にマークが有った
これが、旧不動坂ではなかろうかと、右手に取り尾根に取り付いた
尾根にはテープがきっちり巻かれている
 
尾根を直登するが、それらしいものはない
もう少し登ろうと登ってみるが、ヤハリ杣道らしい
引き返すのも嫌だとここまで来てバリエーションで弁天岳を目指した。
尾根は状態がいいが、急傾斜は半端ではない。
弁天岳からの下山で旧不動坂道を探ろうとひたすら弁天岳を目指した
小さな棚に電話会社の設備がありアンテナが有った
此処で車道に出ればいいものを尾根に拘った。これがスズタケブッシュ、懲りないショウタンだ
  

アンテナから少しの間は状態が良いが、途中でブッシュと成る。森林香が虫を抑えるが心配だ
ブッシュを掻き分け、車道に下る。
弁天隧道を抜け右手から再度尾根に登り弁天岳に登った
 

弁天隧道、北出口南側広場入口5mに隧道上に登る道があり、道に従って登ると、山頂三角点横に出る
バリエーション登りは2時間10分かかってしまった

とにかく険しい登りりだったが、この尾根を横切る古道??があった。
少し歩いてみたが、途中の谷で完全崩落してオマケにブッシュが有り通れなかった
想像だが、不動坂まで伸びていたのだろう。旧不動坂道に、そこと繋がるだろう位置に道分岐が有った
道の広さと、清不動との標高差から想像して、トロッコ道だったかも??ロマンだ
いつもの山頂で、昼食だが時間は2時半とすっかり遅くなった
山頂の東屋でご飯だ、ぶっかけうどんとサラダ、ビールが旨い、旨いビールとはこんな時に飲むビールのことを言うのだろう

目的の弁天岳三角点 三等三角点、弁天岳

 

弁天岳から、女人堂に下る。
今日は、高野山内は祭だと聞いていた。何の祭りか知らなかったが、人が多い

高野七口の中で現存する女人堂だ
京都府八幡市からの東高野街道と、大阪府堺市から下高野街道、中高野街道を合流した西高野街道が、大阪府河内長野市で高野街道京大阪道となり、高野山へ至る参詣道です。

この街道は、江戸時代末期になると、圧倒的に利用者が多くなり、旅館や茶屋で賑わうようになりました。道中には堺市の十三里石から始まって不動坂口女人堂まで約一里(4km)ごとに里石(道標)が建っています。
橋本市には、石堂丸の物語で知られる高野街道沿いの古刹、学文路苅萱堂があり、人魚のミイラや硯石などの文化財で有名です。
また、到着点には、唯一現存する女人堂が残されています。
高野山は、弘法大師空海が約1200年前に開創して以来、明治5年まで女人禁制でした。その昔、越後の国に本陣宿「紀の伊国屋」があり、そこに小杉という娘さんがおりました。数奇な人生を送りますが、女人禁制の高野山へ登って来られる女性たちのために不動坂口に籠もり堂を建てたのが、後に女人堂となったということです。

和歌山県資料から転記

女人堂から駅方面に少し歩くと不動坂に下る分岐が有る。
現在通行止めと有るが、歩行者はOKと聞いた。
下ると、花折坂が出る。花折坂とは花をたむけると言う意味だそうで、近年付近から華瓶(けびょう)が見つかった
 
その 見つかった華瓶(けびょう)が置かれた所から旧不動坂へと分岐する
花折坂の下すぐだ
ラミネートの仮道標が有り分岐は分かる。苦労して尾根など登らなければよかったと反省するが、これがショウタンか 阿呆だ
濃い踏み跡と整備が有り歩き良い
下れば、清不動裏に出る
 清不動

今回は探索しなかったが、清不動裏に、高野山トロッコ道の隧道が有る
覗いてみたが、大きな崩落もないが、中に入るには勇気がいる。10mばかし中に入ると、出口が見える
カメラのフラッシュが光らず中を写せなかった
 トロッコトンネル
清不動から少し下ると続いて旧道の分岐が有る
道標が有り、不動坂、京大阪道の案内があり整備されていた
入り口が閉ざされていたものを、最近整備したと聞いた
 
コンクリ舗装された現在道よりはるかに足にやさしい
今のところ、整備状態がよく、途中に史跡の案内があり、萬丈ケ獄の場所や、旧不動堂(ここにあった不動堂を移したのが清不動と聞く)
最後の、いろは坂は、クネクネと急坂を下る
京大阪道、最後の難所だった。それにしてもこの急坂をかごを担いで登った古人の力はすごいと感じる
 
クネクネと下りきると新道に出た
いろは坂は、もっと下まで続いていたのだろう
 新旧出合い
下ると。ケーブルカーの下を通って赤い橋を渡り、極楽橋駅に向かう
上からケーブルカーが来た
ケーブルカーのお客様が手をふり、此方もそれに答えた
 

雰囲気のある高野山駅から普通電車で学文路駅まで下った
多くの隧道や急カーブ、南海高野線はレールをきしませユックリと下った。
 学文路駅
 戻る
反省
ユックリとコースも調べず、まっ行けるだろうと暑い仲歩きました
同行してくださった方に、バリエーションを歩かせ、オマケにスズタケブッシュをこがせてしまい反省しています
これがショウタンか、などと思ってお許し下さい
念願だった完全古道、京大阪道を歩けたことで満足していますが、ヤハリ街道あるきは苦手な私です