青垣の山々
耳我峰
細峠から龍在峠、芋ヶ峠、高取城跡、高取山縦走
2015/01/14
4人

総時間7時間15分
歩行距離11,6km
大和青垣の山々、奈良山岳会編の古書には、耳我峰(みみがのみね)と題して細峠や龍在峠、芋ヶ峠等が紹介されている
耳我峰とは、天武天皇が大海人皇子(おほしあまのみこ)だったころ、吉野に移り住んだ事を思った歌だと言う

み吉野の 耳我(みみが)の峰に 時なくそ 雪は降りける 間なくそ 雨は零りける その雪の 時なきが如 その雨の 間なきが如 隈もおちず 思ひつつぞ来し その山道を

耳我峰が読まれている

耳我峰は何処を指すかは議論されるところだと聞くが、今回歩いてみて、今回の従走路ではないではないのかと感じた
旧鹿路トンネル西口手前から細峠に取り付いた。気温が低く夜に少し白いものが降ったのか、路は薄っすらと白い
 
取り付きは、直接竜在峠に行く事もできる

道なりに登れば朽ちかけてはいるが、道標があり細峠に出る
 
細峠は、菅笠日記の本居宣長や松尾芭蕉が吉野紀行で通った峠だ
峠には、松尾芭蕉の「ひばりより空にやすらう峠かな」、の歌碑と五輪塔があり、往時をしのぶ
 
大和青垣の山々の古書では、この峠付近は集落があり賑わった所のようだが、今は廃村だと写真入で紹介されている
多武峰や明日香(飛鳥)の人々が往来した峠だろうが、今はその面影も無く、歌碑は往時をしのぶ
細峠から林道になった古道を城ヶ峰に向かう。古道は途中から別れ竜在峠に向かうと、今日の案内人ベル子が言う
古道分岐には小さな案内がある

林道を読図しながら三角点、城ヶ峰が鎮座する城ヶ峰ピークを目指すが、ピークへの道は無い
林道から小さな目印を見つけ尾根に乗り登る。ベル子は以前はすごい笹だったが、どなたかが整備されて歩きよくなったと言う
 

小さな山頂の城ヶ峰、中央に三等三角点、点名、城ヶ峰が鎮座する
三角点に埋め込まれたICタグが心無い人に壊されていた。三角点について、知識の無いハイカーや初心の登山者が多い事に嘆くベル子
三角点は国土地理院が管理して、日本国土地図を作る大切なものだ。

 
点の記を書いてみます

等級種別 三等三角点 基準点名 城ヶ峰 北緯34°26′36″.0088 東経135°52′00″.8548 標高752.25
選点明治36年5月28日 設置明治36年7月2日 観測明治36年10月3日
所在地 奈良県高市郡明日香村畑226番
城ヶ峰から竜在峠に下る。笹は刈られているが踏み跡は薄い、コンパスを取って竜在峠に下った
少し注意が要るコース取りだ

龍在峠付近も集落があったのだろう。戦争で無くなられた方の大きな墓があり、峠上には金比羅社跡の祠が有ると、案内して下さるベル子だが、小さなピークには祠が朽ち無くなっていたが、石積みや灯篭から推測して、大きかったものだろう、又古木の桜は数百年物の見事なものだ。集落は大きかったのだろう。滝畑方面に下ればその跡があるという
  
途中に幾つかの道標があり、また勝手道標も有りコースは整備がいい
直ぐに地蔵が出た。明日香(飛鳥)や多武峰、吉野と旅人の往来が有った古道は今もその跡を残す
  
四等三角点 滝畑668.31mを特定して、急坂を下りその下の陽だまりで昼食を楽しむ
サークルK氏の正月バージョン日本酒を少々飲みすぎたショウタンだ
 
食後、現在地特定を楽しみながら芋ヶ峠に向かう。
ただ歩くだけなら道標やマークが有りルンルン、犬を連れた老人が通った
途中意味不明のマークが出た。簡単なコースでも地図とコンパスは必携だ
 
芋ヶ峠の上で少し意味不明の道標が出たが、現在芋ヶ峠に出てその意味が分かった
車道に削られ、古道芋ヶ峠が無くなっていたからだ
 
芋ヶ峠頂上と書かれた案内
車道横のとりつきには、古道の案内看板があった

ここにも天武天皇の
み吉野の 耳我の峰に 時なくそ 雪は降りける 間なくそ 雨は零りける その雪の 時なきが如 その雨の 間なきが如 隈もおちず 思ひつつぞ来し その山道を
が書かれていた
車道を横切り道標にしたがって、高取山に向かう(壷坂寺、大淀古道)
 
 
ここからは踏み跡はやや薄くなる。途中で林道に下る事も出来るが古道に拘った
四等三角点、芋ヶ峠を特定して、古道を歩く。途中で大きな大木が倒れて道を塞いでいた。
 
下ると林道に飛び出し、地図林道終点から再び古道に入る
この付近はもう高取城跡だろうか?
 
道なりに歩くと、小さな石表が出たが上手く読めない
道なりに歩けば見事な空堀が出る。その上は出城だったのだろうか
 
二つ目の空堀で小休憩だ
 
段々と巨大な石積みが現れると、そこが高取城跡だ。大きい 本当に大きな山城だ
 
  
井戸が今も残っている
冷えがそうさしたのか腰に違和感が出た。ユックリと歩く
城内に向かえば、見事な大木の杉やケヤキ、巨大な山城はその石積を残す
 
 
ショウタンは、一目散に高取山三角点に向かった。
真冬というのに、観光客が多い高取城跡だ

三角点は天守閣跡にあり 標高583.63m、三等三角点 点名は高取です
見晴らし地点から、大峰や吉野、東には雪のかぶった高見山が綺麗に見えた
 
コーヒーと茶菓子で行動食を取り、ワイワイ 腰に冷えが悪いとカイロをくれる仲間たち。嬉しいね

高取城は歴史も古く江戸期は、譜代大名、植村二万五千石の居城として明治まで続いたそうな


古い明治の写真からCGで再現された看板
道標にしたがって壷坂寺に下る。
古道だろうか、案内はバッチリで、途中まで車が入る事が分かった
五百羅漢に向かって下る。
  
電波塔管理道に出て、道標にしたがって下る
 
古い墓地跡を下り、雨裂のような道を下ると小さな岩場をトラバースで下ってゆく

下ると壊れたような灯篭付近の岩場に、五百羅漢が掘られているが管理は無いようだ
荒れるに任せた岩面いっぱいの五百羅漢は、それぞれ表情が違うようだ
上半分は土に埋もれているのだろうか。壷坂寺奥の院と書かれていた
 
その横に新しい仏像が並んでいた
新しい仏像前と、その下に道が有り、新しい仏像前を下れば車道に出るところに車の駐車スペースがあった
下の道は古道らしく、壷坂峠下の車道にその出口があった
 
新道取り付き                      旧道入り口
旧道入り口下100mに路駐していた

雷の丘から見た今回の従走路の山々、カシバードで

今回このコースを案内してくれたK氏は耳我の峰は、今回歩いたコースと読み取っている
こんな話で盛り上がる山仲間、新宮山彦で出合い時には山を同行する歴史に詳しい、サークルK氏、
マタマタ、大和青垣の山々を歩くだろう

歩いた道、歩く道の歴史を調べるのはとても楽しいですね。
ショウタン解説の吉野金峰説は時代が合わないので、当初話されていた、あの歩いた尾根が耳我の峰ではないかと思います。
桜井を越え、現在の鹿路トンネルまでが大和多武峯、トンネル(峠)を越えると吉野です。
天武天皇は6世紀、役行者は7世紀です。飛鳥・奈良時代の吉野は宮滝遺跡の吉野宮(吉野離宮)があったとされています。
飛鳥・奈良時代の天皇皇族は宮滝離宮に足繁く通ったようです。
乾説では飛鳥石舞台辺りから冬野川に沿って遡り、談山神社西口から冬野経由で竜在峠までの尾根を歩き、滝畑を通って吉野川に出たのではないかと思います。
吉野川から宮滝離宮は目の前です。
現在でも鹿路トンネルを境として気候が変わり、あの尾根辺りは良く雪や雨の降る地区です。
冬野川沿いの冬野に入る入り口に、この前も話したと思いますが「茂古の森“気都和既神社”」があります。
中臣鎌足が蘇我入鹿を倒したとき、入鹿 の首が追いかけてきたので、鎌足は板蓋宮から当地まで逃げて、「もう追いかけては来 まい」といったことに由来する、という伝説があるそうです。

そう言った意味から冬野川沿いは古くから利用されていたと思います

ブログを興味深く拝見しました

乾説で不安になったので調べてみましたら、大きな間違いがあったので連絡します。

天武天皇が6世紀と記入しましたが、出生年不詳ですが西暦686年までの生涯で天皇在位は673〜686年の7世紀でした。父親は、昨日明日香で大発見となった舒明天皇の第三皇子で671年出家して吉野に隠棲後、天智天皇崩御後、壬申の乱(672年)に勝利し、翌年に飛鳥の浄御原宮(きよみはらのみや)で即位。律令を制定した偉い天皇でした。

以下に関係資料を添付しました。

やはり、耳我の峰は芋峠から細峠辺りの尾根筋を指すようです。

歴史って面白いですね。

奈良・サークルK

吉野で天皇と六皇子の誓い

673年天武天皇として即位してから6年後の679年、天武天皇は皇后と6人の皇子を共に吉野離宮に行幸しました。この時天皇は壬申の乱になる前に出家をして近江宮から逃れるように吉野に来た時の不安な気持ちを回想して次の歌を詠みました。


み吉野の 耳我(みみが)の峰に 時なくそ 雪は降りける 間なくそ 雨は降りける その雪の 時なきがごと その雨の 時なきがごと 隈(くま)もおちず 思ひつつぞ来し その山道を      (巻1・25)
(思い起こせば吉野の耳我の峰に時を定めず雪が降っていた。絶え間なく雨が降っていたよ。その雪がその雨が絶え間なく降るように道中ずっと物を思いつつやって来たことだ。その山道を。)とても重い歌です。

ここで天皇は6人の皇子に千年の後まで事が起こらないようにしたい、と伝えると皇子達、草壁、大津、高市、忍壁、(この4人は天武天皇の子)河島、志貴(2人は天智天皇の子)は互いに助け合い争わないことを誓います。また天皇と皇后も6皇子を分け隔てなく愛することを誓ったのです。皇子達が成人して再び皇位争いを行うことのないようにと壬申の乱に関係の深いこの吉野で誓いあったのです。
この時に次の歌も詠んでいます。
皇子達と誓って気持ちが明るくなったのでしょうか、とてもリズミカルです。

淑(よ)き人の よしとよく見て よしと言ひし 吉野よく見よ 良き人よく見                         (巻1・27)
(昔の良き人が よい所だとよく見て よいと言った この吉野をよく見よ 今の良き人よ よく見るがよい。)
天武天皇と皇后(後の持統天皇)にとって吉野は聖地であったとも言われます。それは神とあがめられる天皇についた出発点がこの吉野だからです。天武天皇が崩御されて持統天皇の時代になった時、持統天皇は31回吉野を訪れましたので、この歌には深い意味が込められているようです。


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