日張山と覗ヶ岳、後倉山 2016/05/28 3人 |
コースタイム P8:35-日張山青蓮寺09:10〜09:45-日張山10:06〜10:07-覗ヶ岳12:10〜12:46-奥倉山13:00〜13:08-文殊峠13:37-宇賀神社13:50 歩行距離、8.5km 総時間5時間25分 本当にゆっくり |
日張山と言えば謡曲雲雀山や中将姫で有名な尼寺、日張山青蓮寺と言う事になる そんな宇陀市菟田野宇賀志の日張山青蓮寺裏山の三角点、雲雀山が乗る、日張山青蓮寺から日張山に登り、東吉野村との宇陀市の境界尾根を読図を楽しみながら覗ヶ岳、奥倉山と周回で歩いた。 |
R166号榛原街道から、菟田野宇賀志の宇賀神社横に路駐して車道を青蓮寺に向かう 宇賀神社その物は由緒有る神社ですが今回は説明無しと言うことで記事を書いて行きます |
コースは道標に従って車道を歩く。 ハイキング等には雰囲気が良く、付近には名所が多いが今回は山を中心にした 村はずれに小型バスなら止められそうな駐車場が有る。 町石では7丁の所だ |
途中に鼓ヶ滝の案内は有るが、この下だろうで通った。多分あの斜漠ではと写真をパチリ その先の左小岩の中に表情が優しい地蔵が出た。あまりの表情のよさに近づいて字を読んでみたが読めないショウタンだ 書けば悲しい話だが、中将姫がこの場で惨殺される所だったそうだ 中将姫の話は各ページに多く書かれているから省略しよう ただ、身代わりの少女、瀬雲が斬首された事を知る方は少ないだろう ショウタン的には、この地が瀬雲が亡くなった地だったのだろうか、 中将姫より、より哀れな最後を迎えた身代わり少女、瀬雲の墓は無いという住職 ただその先で少し大きな地蔵が右手に出る。これが瀬雲の墓では無いかという住職、尼僧の掘切康洋女子 左の地蔵が瀬雲の墓か?? |
手洗い所が出て、右手の階段を登ってゆく、 車道は車用で、階段を登ればモウ最高の古刹雰囲気がムンムン、苔が蒸し、巨木が聳え、それは最高の雰囲気だ その途中に、隠れ住んだ中将姫の歌碑がある なかなかに、山のおくこそ すみよけれ、 くさ木は人のさかを言わねば まるでショウタンの非日常の場を歩く、登山の気持ちと同じでは無いかと、山の楽しさを歌っているように思った |
階段が出て山門が出る。西洋シャクナゲが綺麗だ。流石尼寺、中将姫の寺だ 謡曲雲雀山の事が書かれた立て札が出た 興味有る方は読んで下さい |
上り切ると広い庭に、庫裡と阿弥陀堂、本堂がある。 本堂には、中将姫がみずから彫った、命の恩人松井嘉籐太春時とその妻静野の像と、中将姫の像が安置されている 同行の二人はお堂に上がり住職の読経で焼香にあずかった 左から 阿弥陀堂 本堂 庫裡 余談だが、私の尊敬する建築士、Bさんは、若かりし頃この本堂と、阿弥陀堂を見て写真に収め、建築の勉強をしたとか 本堂は二度の火災に会い、今のものは明治のものだそうだ。 |
鐘楼で鐘を突かしていただける。 鐘は無常の鐘と書かれ、一回百円だ。三人でその音色から、無常を味わった 無常とは、登山と同じ、非日常と言う意味だそうな その横に、樫の木に宿った巨木の桜と桧、見事の古木だ。 その下に松井嘉籐太春時と妻静野の墓が有る。 現在社会から見れば、お金持ちの少女の話だが、主人を裏切ってまで、息女を助けた松井夫婦、内職までして生活を助けた下女、そしてその時代は美しい話だろうが、身代わりとなった瀬雲少女、青蓮寺はその時代の縮図を書いている歴史有る古刹だ 鐘楼と三種の木が重なった古木と 松井嘉籐太夫婦の墓 |
住職から歴史や寺の事を尋ね、日張山から覗ヶ岳への登山を告げた。 すると 中将姫の父、藤原豊成公が自分の領地であった覗ヶ岳に狩のため登ったとき、山腹から煙が立ち上るのを見て、家は無いはずとその地に出た。そこに継母に流され死んだはずの自分の娘がいた。 その事から、小さな山に名が残り、覗ヶ岳、の名が付いたとか、住職は言う 今は寺が見えないが、そのころはその地点が見えたのだろう。 一度登ってみたいという住職だった。 |
松井夫婦の墓前から覗ヶ岳に向かう 一度小さく下り、道なりに登れば日張山に着く、 途中に小さな祠があることから、生活道か参道の残りが今の破線道だろう 丸い小さな山頂が日張山で、三等三角点、雲雀山が有る。謡曲から名づけた点名だろう。歴史は面白い 山名板は多く架かっているが、点名を記したものは少ない。少ないどころか、その意味すら分からず外し捨てる方も多いと聞く 無知な話だ。 今日の点名版は私に三角点の知識と、数万円の三角点の本を無料で下さった京谷さんの遺作だ たった一度、勝負塚山で出合っただけの京谷氏、これも縁で、その教え子、宝来の鈴さんと山行を行う出合いが、新宮山彦ぐるーぷを通じ出来、今は炉端山友会の会友と成っている。 北緯34°27′19″.7165 東経136°00′19″.4566 標高594.92 |
此処から東吉野と宇陀市の境界を目指して歩き、覗ヶ岳に向かう 読図を勉強しながらの尾根歩きだが、馬鹿なショウタンは地図とコンパスを忘れた 所が、馬鹿を知っているS女、1/10000に拡大した地形図を持っていた これなら細かい尾根角度は取れないが、方向は腕時計のコンパスで取る方法が有る バンドをプレートにして磁北と磁北線を合わせバンドをプレートの矢印に見立てる方法だ 今はリストコンパスとして売られているコンパスと同じ使い方だ。 細かい角度は拾えないが、行く方向は略拾えるが現在地特定等、小さな尾根角度をキッチリに拾うことは難しい 現在地特定は同行者に任せ、此処は何処だろうとピンポイントで知りたいときに同行者にコンパスを借りる馬鹿ショウタンだ 途中で、見晴らしが出た。コンパスで覗ヶ岳と、目標の四等三角点、奥谷(奥倉山)を同定した |
尾根に道が有るだろうは予測はしていたが、アララ林道が出る 林道をつけたが、それを利用した形跡が無い林道だ。 谷や支尾根、小さなピークから現在地を予測して行く 地形から現在地を探りよい道だが、1/25000の地図なら分かりにくかったが、1/10000の拡大では簡易コンパスで十分方向が確定できた ただ、現在地特定は、支尾根の角度測定と主尾根の角度測定は微妙に取れない コンパス貸して、本当に阿呆だ 林道は抜けたところもあったが通行に問題は無い |
少し現在地を間違っていた事に気がついたり、此処は??と古道を外したりとしながら歩いた 覗ヶ岳は小さな植林のピークだ。私達が登った方向の取り付きから、日張山青蓮寺方向が望めるが、寺は見えなかった 植林の無い時代の落葉の時期なら見えただろう 見た目の急傾斜を登ったが、山は植林で美しさは無い 歴史からの覗ヶ岳の意味を知れば登る価値は高い 景色も何も無い山頂だが、何人かは訪れている 山頂でお昼を楽しみ、同行者が持ち上げてくれた泡茶をググッと一息で飲む、ウマイと出る言葉 午後は晴れるはずが、雨が降ってきたようだ |
尾根を下り、次のピークが四等三角点奥谷だ。俗称の山名は後倉山だ。 山容は、覗ヶ岳とそっくりのピークだ 山頂に綺麗な四等点はあるが、流石に山名板は無い 所が、三角点の先下に祠が有り、どう見ても恵比寿さんの石像が祭られているが、訪れる人は本当に少なそうだ 後倉山、倉の後の山なのだろうか、 四等点、奥谷の記 標高566.30、北緯34°26′36″.1710 東経136°00′00″.4202 |
破線道に向かって尾根を降りた 地図に家マークが乗る??と思いながら下った尾根先に、人工石が倒れていた 起こすと古い墓で、オヨヨ、尾根先は墓地だったのだろうか、その先の家マークは立派な神社だが、神社の名前を書いた物が無い?? 神社下から舗装されていたが、何時人が来たか??と思うが神社は立派なものだった |
神社下の舗装路を下る。お寺と間違いそうな大きな家の屋根が見える 更に下れば、文殊の文殊峠に出て車道を下る |
途中の民家で、後倉山のことや、神社の事を尋ねたがその存在すら忘れられていた 血原橋を渡れば宇賀神社だ。 距離が短い今日の山行だが、足を傷めているショウタンに合わせてくださり、ユックリとした周回だ 思いもよらない歴史が詰まった菟田野宇賀志付近、神社の集会所前に座り今日のコースを振り返り、ワイワイと楽しい山行を振り返った |
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後日、和歌山有田市糸我の雲雀山、中将姫伝説の山を訪ねた |