三角点蔵人と刈又山 2015/04/09 越後屋隊にて |
登山口にリンク 登山口10:15-片川大使堂11:52-三角点12:17〜12:57-刈又山13:50〜14:20?-登山口16:20 総時間6時間5分 大きな地図にリンク |
今回のコースは平成12年ぶよお堂発刊の大和の三角點を尋ねて、上田幸弘先生のコースを参考にした 先ず、R425十津川村の小山手、下向バス停東20mから取り付いた。 登山口前に新しい民家があったが、無住らしい。村人の通行を待って、刈又山への登山を告げ、車の駐車を願った。 村人は、駐車は良いだろう。道は有るかなと片川大使堂への参道を心配してくれた。 国土地理院が示すとおりに道は有ったが、少し横から取り付き、片川大使堂参詣道古道を探った。 少し上に有る廃屋?上にそれらしい物を見つけ尾根に取り付くが、何とかその跡が残る程度だ |
尾根下を巻く単純コースは巻き道の現在地特定は難しい。 途中の尾根への直登地点まで、民家との標高差は190m、おのおの持つ高度計現在地の標高に190mを足した地点が分岐と、標高を合わすより、その地点から何メートル上と高度計で計るのがショウタン流だ ショウタンの高度計は250mを指していたから250m+190mで440mmを指す地点が分岐だろう |
高度計は気圧変動の激しいときは使い物にならないが、短時間の標高差を計るにはこれ程便利なものはない 二人の高度計がほぼ同じ位置を示した。そこに膨らみ程度の尾根があり、ここだろうと直登するがその傾斜は這い上がるくらいだ この付近に、それらしいものは無い、下山時分かるが、その手前30m程度の斜面に、道が有ったが、分岐地点はもうその跡はほとんど判断できない。 又、地理院も破線道の位置が少し違う 下の人が歩く手前が分岐だ。その前の尾根を登った 登ってみると、ここに古道が有るはずがない傾斜だったが、登るに問題は無かった |
尾根に出れば小道が出る。次はトラバース地点を探る 地図を信じ、530m地点に出でた。+120m付近に分岐があるだろうと、おのおの自分の高度計に120mを足した標高を記憶する。 尾根道は歩きよい ところが、+90m付近で道が分岐する。よくよく拡大して地図を見れば、尾根横を道が通っている。 巻き道からトラバースに入っていくようだ。 ここで、もう50mも上だと判断したショウタンの読図誤りだ。 又その地点に動物道だろうか植林道か、細いトラバース道が有り、ここだと判断した。 結果は古道上を歩いたのだが、マア細い踏み跡で、足幅程度の所も有った。 トラバース道 分岐を探る↑ |
マア古道を外したが方向は同じだ。古道に突き当たった。?? 何処から来た道かと頭をひねるが、?? 後で、トラバース道が間違いだったと判断した。 直ぐ上が神社マークの弘法大使堂だ |
下山時に村人が言うに、仏像は別の所に移したと言う。各所の神社や仏像は一箇所に合祀されているという。 村人が無くなりお参りや、補修が大変なんだろう |
ここで片川(かたこう)への道や付近にあるソマ道の方向を探った。 ユックリト休憩して、尾根を三角点、蔵人に向かう。 古道らしい踏み跡が出たり、無かったり、尾根に準じた。 三角点ピークには、木に二本のテープが巻かれ、点マニアが時には訪れるのか 点は丸い小さなピーク上にあった 同行の鈴さんは上田先生のデーターをそのまま載せるが、標高が変わっている 最新のデーターを書いてみよう 等級種別、三等三角点 基準点名 蔵人 標高804.23 北緯 33°58′44″.8218 東経135°42′01″.0808 埋票、明治36年5月26日 所在地 吉野郡十津川村小山手クランド140 |
さらに尾根を登る。鹿よけネットなどが出るが歩きよい 地理院地図の破線分岐付近で東側はそれらしいものが残るが、西側は不明だ 尾根中央を直登するが、途中で松のブッシュ、植林されたものかは分からないが、珍しいブッシュだ 霧で濡れた松の中を登ると、又鹿よけネットなどが出るが、問題なく登れる 最後はゲートを開けた。後始末はきっちりとして、自然林内を登る 雰囲気が良い |
山頂には見慣れた道標が一枚のみ有った。奈目良氏の書いたフクロウさんが朽ちかけていた |
下山は尾根を下るが、途中で巻き道を利用した。 登りに見た古道らしい道が、登り尾根道と繋がっているのではとの推測でそこに入ったが、別道だった 早く気づけばいいものを、アルバイトして別尾根に入るまで気づかない阿呆なショウタンだ。ワイワイガヤガヤ 登った尾根に下るが、踏み跡はなかった 登り尾根に出て、道出合いを探った。 小さな尾根を登りきった少し下にその後がハッキリとあるが、半分ほどは抜けて無かった 斜面に道が有ったようだ 後は登り道を下る R425出合いは地図に載る小道に出た。 下向かいバス停北20m程度だ。 バスは、一日四本で登山に利用しにくい時間帯だった。 |
奈良交通下向時刻表 1915年4月9日 |
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