紀ノ川市
春日城山から上朽仏山、葛城経塚五番、倉谷山と廃村今畑の多門寺と白鬚神社バリエーション
2019/07/08
二人

春日神社の位置地理院地図にリンク

総時間7時間10分
距離約8.5km
春日山の城跡、春日城山跡は南北朝の時代に、北朝に味方した岩田八郎、以下三百名が討ち死にした城跡だ
春日山城は、秀吉の根来攻めに消失して何もないが、城郭跡や出城郭跡がその跡を残す

少し歴史を感じながら春日神社から、尾根を伝い春日山の城跡から旧土仏峠上の上朽仏山、葛城二十八宿経塚五番の稚児の墓、その先の倉谷山と
廃村、今畑の白鬚神社と多門寺を見て、林道を馬別れ、新土仏峠を下り岩出市の元気の森に下った。

先ず、岩出市の元気の森に一台をデポして、春日神社の第二鳥居横の駐車場に移動して、先ず史跡の岩田八郎の墓碑の有る旧、御旅所に行く
この峰は案内から、東三谷八郎ヵ峰と書かれている

御旅所まで車が入ったようだが、今は御旅所が鳥居横の小池下に新しく移されている

新しい御旅所(祭礼のとき、みこしを本宮から移してしばらく安置する所。)


御旅所は移され、岩田八郎の墓のみが広場の隅に有った
  
岩田八郎の末裔は私の友人で、他のブログの記事によれば、墓は少し下にあったものが、土砂崩れで埋もれ、京奈和工事の時期に崩落場所から移したと書かれているが、友人も同じ事を言った。
又、少し以前までは八朗ヵ峰から紀の川平野が見晴らせたのだとか、今は雑木や竹で見えない
八朗ヵ峰のピークに登ってみたが何も無かった
新しい御旅所は、鳥居横の小池下に新しく作られていた
  
鳥居に戻り
道西側の笹中に石碑が有ったが、これはこの付近が社領地だったことの名残だろう
 
定 と書かれた石には、車馬ノリイレルコト、魚鳥を捕フルコト、竹木ヲ伐採スルコト、右條々禁止スル、大正元年吉一日 和歌山県
と書かれている。後一つはショウタンでは読めない
岩田商店横から農免道路を横切り、春日神社に向かう
大きな神社だったそうだが、豊臣秀吉が紀州根来攻めの時に春日城共々消失してしまった物を、規模を縮小して、紀州徳川家が再興したそうな
  
赤い鳥居の横に神社の歴史が書かれていた
後堀河天皇御代、貞応二年
明恵上人中三谷に金剛峰寺を建立、その守護神として南都に赴き三笠山より観請して此処に祀れるなり、伝伝
  
社殿にお参りしてトイレと書かれた建物横から春日城山に取り付く
小さな沢を越えて行く道が有り横には井戸があった
井戸は石積みで水を湛えていたが古いものだろう
  
どの尾根から登ろうかと目視したが、何処も変わりはなさそうで、下調べから出丸の郭が有った尾根にした
傾斜は有るが、雑木は大きく上り良いが、倒木を避けながらの登攀だが標高は無い
郭らしい部分が素人にも分かる。戦いは激しかったであろう事が地形から見て取れる

南北朝の御世、北朝に味方した根来寺、西蔵院の院主、岩田八郎は三百余の兵で二ッ引両の旗印を上げ敵南朝方3700と対峙して一昼夜戦い300百兵、岩田八郎共々打ち死んだ城跡だ
今は歴史以外にその厳しさを残すものは、郭跡や北を守ったであろう堀割などが残るのみだ
二ッ引両の旗印
この戦いで、城と神社は残ったようだが、秀吉の紀州根来攻めで、根来寺東二`の春日山城と春日神社は消失したそうな
春日山山頂で人工物を探していると、和歌山の山々を登られる、セキト氏の足跡が有り、オウ、どのコースで登られたのかとしばし語らう二人だ
  
山頂から北に直ぐ、厳しい傾斜の堀割が出る。
尾根を掘り下げ、掘り取った土や石を尾根に積み上げ堀を深くしている
ショウタンなら掘り取った土石は斜面から落としてしまうだろうが、城防備とは少しの無駄も無い
その先20m程度で突然良く踏み固められた小道が出た
細い尾根だが人工的に作られたことがわかる
  
緩やかに尾根は標高を増す
途中から小道は尾根から斜面にと変わる。
地図を眺め道の行く先を検討するが??、相棒はショウタン道を行きたいのでしょうとピタリ
道を行くが、現在地が読めない??

どんどん進み、正面にピークが出るところで、尾根下に道が有った事をつかんだ
ピーク329に突上げたが、道はその西を巻いていた
  
329ピーク突上げ地点に登山者が残した目印が2種でた
春日城山に登った物か、経塚や廃屋周りの方たちだろうか、私には分からないが読図達者な皆様だろう
  
山頂から下ったのか矢印は下山方向に向いていた
真剣にコンパスを取り道を探りながら登った。道跡は残り古いマークが有ったり落ちていたり、探索者はいたようだ
途中で、第五経塚ピークが見えたが、コンパスでその位置を探るとピッタリと合った
現在地読みも合っていた。
尾根が北北東に変わるころから、道跡は濃いが雑木が道を隠す
どうやら、倉谷に有った、倉谷温泉に下った方も有るようで、よく見れば測量杭も有りそれに従った
時々はマークも有り、読図を疎かにしだすと倒木が道を隠し、アララ
途中に面白いマークが出たが、そこを小ピークと読んだ相棒に、ダメダメサインで真剣に尾根にコンパスを取った
小ピークには測量杭があった
  
尾根が出たり谷があればコンパスで何処かを探る。
後少しで三角点、土仏と言う地点で少し広いタオに、倉谷温泉跡の道標が出る
マークと文字から、行者、鉄山氏のものと推測した

此処で尾根に乗れば間違いなく三角点に着くが、お疲れショウタンは道を選んで、笹中を歩いた
この道は不向きだと思い直し、標識位置まで戻り尾根に取り付いた
フー、暑い暑い、風よ吹け
  
三角点、土仏に着いた。山名は上朽仏山、もしくは千種岳だろうか
大峰奥駈道も千種岳と菊の窟の位置は今も分からない
三角点の記を簡単に書いておこう

等級種別 三等三角点、点名 土佛、標高 492.41m 
所在地 紀ノ川市西山田字陰地ヶ原333番15
選点 明治36年5月25日 
管理 紀ノ川市粉河庁舎林務課
小休止して、三角点横に咲くリュノヒゲらしい花を写して、経塚五番に向かう
これは、道は分かるが、倒木と蔓科が道に倒れ、もう歩きにくい
だが、新旧の目印が有り迷わず歩けるだろうが、現在地を失うとあら何処に行くのと方向取りに時間が係るだろう
倒木を潜ったり、巻いたり、アー 汗がポタポタ
 アー飲みタイなー
五番経塚、稚児の墓西下の谷から今畑に出るが、
先ずは五番経塚、稚児の墓に登り 
稚児の墓にリュックをデポして、空身で倉谷山に向かった
 
倉谷山は縦走路から少し外れている。マークも無く読図をしよう
引き返し、稚児の墓で休憩だ
食後引き返す格好で谷を下る

 
最初は踏み跡は無いが、植林が出る頃になると踏み跡やマークが出る

降りは谷の方向取りを間違うと大変だ
植林谷から沢状の谷に成り、此処を左に下り踏み跡を見つけよう
 
テープは有るが古いものだ
水量が有る二瀬川に出ると10m上に林道が有る、登れば行者の目印が杉に打たれている
  
林道を下り倒木下を下り分岐を左に登る
道は荒れだしている
 
廃村今畑への道を登れば、捨て置かれた車が出る
私の青年時代のコンパクトカー日産サニーとトヨタカローラが三台朽ちている
 
コンクリ舗装が残るがもう道じゃない、多門寺と白鬚神社には行者が来る
多少の踏み跡を感じながら登れば、石積みが出て道は左右に分かれる
左が廃村今畑の集落跡だが、右は多門寺と白鬚神社に出る
神仏習合の状態を残す社は朽ちたものを作り直した物だ
  
 
相棒は廃村今畑を見に行ったが
体力切れの私は先に下り林道を馬分かれに向かう
 
今は四輪は通れないが、道の状態は良い
少し前まで畑や田の跡が有り耕作地を感じたが、今はまるでジャングル、道だけが残る

馬別れ右手はボンデン山から、信達葛畑や三峰山に行く
私達は左手の新土仏峠から岩出市の元気の森に向かうが、何時も土仏峠までの緩やかな登りにあごを出すショウタンだ
峠を越え下れば、紀の川平野が見え出し、昔の登った鐘の鳴る丘の三角櫓が見え、又行きたいと鐘の鳴る丘を見る相棒
途中で、元気の森ハイキングルートに入れるが、アップダウンはイヤだと林道を下る
  
下ってゆけば、春日城山が望める、なるほど根来寺と距離は無い
元気の森ゲートは5時に閉じられる
30分の余裕で駐車場に着いた。
梅雨の里山は面白いが、汗は半端では無い
コースを読み、里山を歩く面白さの意見が合う相棒もさすがに暑いと、春日神社に車で向かった
相棒さんと第二鳥居で別れ、神社下の岩田八郎末裔の友人さん宅に立ち寄った
今日の山行報告をして、春日神社の歴史や、御旅所が昔の位置から移動したことのわけを聞きいた
現在は、神輿や稚児が坂を登って旧御旅場には行きにくいので、位置を変えたとか
岩田八郎の本来墓が有ったところは巨石が積まれていたとか
面白い話が多く出た

本題は、春日神社遥拝所の有る意味だったが、友人はあれは地域では余り話に出ない
淡路街道沿いだから、車で行けると言う
なるほど、淡路街道=高野街道で、四国、淡路から高野山にお参りする旅人が、春日神社を遥拝した所だろう
鳥居と小さな地蔵が祭られ、春日神社と書かれた緑片岩は、風化が進みもう春日神社の文字は見えない
和歌山市の風光明媚な新和歌の浦は緑片岩でできている
牛馬に引かれて此処に持ってきたものだろうか
ショウタンの空想は尽きない
 
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