東吉野村 春戸屋峰(山)と三角点小 2017/02/16 二人 |
休憩含む総時間7時間20分 休憩多し |
今日は宝来の鈴さんと久々に二人で山に登った 話せば長いが、勝負塚山で出合った京谷弘胤氏(HNが山の案山子)が奈良の三角点三等以上を全部を尋ねた上田倖弘氏と教壇に立った仲間で、その教え子達と同じ年恰好だった宝来の鈴女子が山仲間だった。 偶然の話から勝負塚山の話が宝来の鈴女子から京谷氏に有り、私の話が出た そんな中で、上田倖弘氏著書、大和の三角点を尋ねて、上下二巻を私に送ってくれたのが京谷氏と宝来の鈴女子だ 面識の無い鈴さんは私に5000円の本を贈ってくださった事は、私の三角点探訪の始まりだ。平成19年8月の話だが その後偶然にも、新宮山彦グループや炉端山友会で山を共にしている山仲間となった。 |
そんな宝来の鈴さんが、少しコースが消化不良で登った三角点、小(おむら)に再度登りたい。 東吉野村の古城跡、春戸屋峰から登る事の提案があり、下山は三角点小北東にある家マークが、何か知りたいとバリ下りでその地点に下るルートで古道を取り入れ周回した。 帰路途中で、小川古城址や明治谷で天誅組隊士の墓を訪ねたり、宝泉寺を尋ねた |
東吉野村役場駐車場に許可を得て駐車、その前の民家下から階段を登り道成りに小川城址に向かう 直ぐに植林内に成る。途中で道は分岐するが簡易な道標があった。 その道標の内に、天誅組さきがけの道と書かれた案内が出た 下調べの無い二人は??と思うが、付近に詳しい鈴さんは東吉野のイベントコースだと記憶を蘇らせたが、コースを知るわけでは無い |
道成りに登れば電波塔が出る。 その上に案内にあるお稲荷さんの鳥居が見えている 城跡だが、その後は稲荷社が祀られたのだろう。 位の高そうな豊姫大明神と豊春大明神が祭られている 歴史的に城主、小川氏は南北朝に南朝から宝剣と神璽を奪い北朝に味方したと言う その城主に謂れがありそうな名のお稲荷さんだ。 東吉野村は神武天皇の伝説の地、歴史的に古い村なのだろうか 私達は山歩きが得意だが、歴史には弱い。 詳しい事はhttp://yama46.cocolog-nifty.com/blog/2009/06/post-2f89.html参考にすると良いだろう |
山頂には石積みがある 城は春戸城又は小川城と言ったらしいし、山名は春戸屋峰又は春戸屋山と言う。 私達は地形図で登ったが、コースは参道が登りよいかもしれない その地図が有ったので載せておきます |
南側の鳥居を出て、三角点小(おむら)に向かう 途中で道はトラバースと成り登ってゆくが私達は尾根に準じた。 すると尾根上に石積みが出て、その長さは100mを越えるだろう 石積みに登ってみればその上はどう見ても畑址らしい。 聞けば、東吉野は茶の生産も盛んな時期があったとか、その形状は茶畑そのもので、少し下に民家跡が地形図にはある そこには極最近まで老夫婦が住んでいたとか。 歴史的建造物ではなく茶畑の鹿よけを兼ねた石積みだろうと想像するが 民家があったかもしれない 石積み上 石積みを降りる鈴さん、その横にTVアンテナが |
尾根を真っ直ぐに登る 途中で林道が出るはずだ。ソマ道が尾根を巻き出る。私は巻き道に、鈴さんは尾根を越える 山姥は急な傾斜の尾根越えに力を出すようだ。 林道が出る。まだ雪は相当残っていたが真っ白で目がまばゆい 鈴さんは尾根から下り私は巻いて林道で出合った |
現在地を特定しながら歩くが、今日も適当なショウタンだ 地図から地形を描くのが得意な山姥鈴は、分岐で、ショウタンコノ道は、衣笠山の尾根で東川(うのかわ)北の尾根に分岐するのと尋ねられ、慌てて地図を見る。 |
少し下って登り返せば、三角点、小が鎮座するピークだ 一度はコノ林道まで車で来て三角点を見たと言い。 登るに登ったが、登山とは程遠い登りをしたようだ。 彼女もコース組み立てが大好きで、聞けば多くの山にコースを描いているようだ 山頂上田氏の点名版 北緯34°22′49″.6356、東経135°58′17″.7186 標高702.51 点名 小 |
山頂でお昼を楽しみ、下山コースは地形図に示された建物マークに下ると話し合い、 尾根を北に下って、植林内に入る。 コンパスは家マークに合わせた 植林内は雪も多く倒木は気に成らない アララ、ログハウスが見えた。 コノ設備は何かと、情報通の山姥も知らない 景色は最高で、高見山や、台高北尾根が美しい |
雪が深く道は分からないが、正置して道を探って下ると アラら、わらび園のなかだった |
ピンポイントで現在地を探ろうと、鈴さんは東の川越しから下る道まで歩き、確実な現在地を探ってきた 私は、尾根越えの道をコンパスで合わせてピンポイントで位置を探った 二人の意見が合い、下りルートを話し合うが、コノ付近はマッタケ山への立ち入りが厳しい 尾根越え道は通れないと、その下のソマ道か林道を探りながら歩いた その分岐に天誅組のさきがけの道、道標や丹生川神社への案内道標が有るが、どう進むのかはわからずマイコースだ |
尾根を目視で追い、林道を歩くがこれが分岐でややこしいが、此方だろうと歩いてゆくが、等々道がなくなりフェンス囲いが出た どうやら分岐を間違ったようだが、現在地は分かる 正面の尾根上に破線道があるはず。フェンス沿いに進むが左手は急傾斜の谷だ 六本アイゼンを装着している。踏み跡も無くなり急斜面を這い登るか、マタマタ斜面を巻くか 登らないショウタンだ。巻いた 尾根に道跡が出たが、一汗流した 破線道沿いを下る。後ろで鈴さんはコンパスが合うと確認を怠らなかったがショウタンはいい加減だ 下ってゆくと浄水設備が出た。沢など無かったが綺麗な水が沸くのだろう |
コノ下で破線道はハッキリしないが、道測量のくいが出た これだと目星をつけ一応方向をコンパスで探り、杭の間からトラバースに入る 最初は道らしいが、動物道となり等々なくなったが、コンパスを信じ、測量杭を探ると見つかった 後は目視で道を探った |
動物避けの鈴を鳴らしている 小(邑)の住人はそれに気づき、下山を待っていたようだ 話せば、よくもマアアノ道を歩いてきた。もう何十年も誰も通っていないと呆れ顔だが、情報はキッチリと教えて下さった 次の小川古城址に向かうが、話し込み行き過ごして、引き返す。 お喋りな二人だ 面白い橋で右岸に渡る 車道からの取り付きは原裕句碑の看板があり坂道を登ればいいが地形図には書かれていない 登れば公園で東屋が有り、山腹には愛宕神社が祭られている 城跡と感じる所は無いが、石標がそれを思わす 原裕の歌碑も立派な物だ あるときは一木に凝り夏の雲. 原裕 東屋で一休みのティータイム、下山は破線道を下ろうと入るが、もう誰も歩いたことが無いような状態だ 下れるか一抹の不安があったが、どうやら古い街道跡のようだった 墓が出てヤレヤレ下れると、車道に下った |
もう何処にも登らないと言いながら、ショウタン、天誅組の墓が有るとマタマタ、明治谷と書かれた天誅組の墓所に登ったフー 良く見ると、斜面に道が有り、小川古城跡に続いているようだった 墓所は綺麗で今も祀られている。花は生花だが、大雪で倒れたのだろうか一部倒れていた 吉村寅太郎の墓のみが二つ有ったが?、一番最初に作られた物だろう 墓は、吉村寅太郎、那須信吾、宍戸弥四郎、鍋島米之助、林豹吉郎、植村定七(植村貞心)、山下佐吉(安田鉄蔵)、天保高殿、西田仁兵衛、の墓が祭られていた |
もう、何処にも行きたくないとフラフラのショウタンだが、やはり宝泉寺に登り、住職のお母様に色々な話を伺った 吉村寅太郎、終焉の地、明治の幕開けの一つのドラマ、天誅組、コノ地でたった六人で彦根勢の陣屋を急襲して見事な奇襲を遂げた天誅組さきがけ隊、映画化に成ってもおかしくは無いと言う老婆だ。 |
東吉野村役場に戻り、駐車のお礼を述べてトイレを拝借して、オマケに天誅組資料を頂いた 歴史の場所が多い東吉野村、山としては有名山は大又から明神平ぐらいだろうが、そこに行くにも、コミュニティーバスは村人料金で、時には歩いていると、バス停でもない所で乗せてくださった話とか、村人は親切だ 次回は、知る人が少ないだろう東吉野村、鳥見山霊畤を尋ねてみたく、ウズウズする私です 東吉野村史跡道標とハルト屋の屋号の食堂、 |
戻る |