高野山 久保小学校から子継峠経由奥の院御廟 下山は、楊柳山、雪池山からバリエーション 2016/10/18 二人 |
コース図 久保小学校から奥の院 08:20~11:20 下山 11:33~15:35 総時間7時間15分 |
紀ノ川流域に住む住人として、山好きなら高野山域をバリバリと歩くのは当然だろうと、時間を見つけては高野山域の山々に登っている 今回の相棒も、高野山が大好きで、高野に行くなら誘って下さいと言われている それじゃ、チョット雪池山に行こうかと前日にTELするも行く行くと一言返事だ あまり感心する行き方では無いが、コース未定の読図でウロウロだ |
経験から、子継道(粉撞道)は道は良いが地形図に反映されず歩くに現在地特定が難しいルートだ 先ず、九度山の北又の久保小学校に車で登る。ここには、歩くか車で登る以外に公共交通の便は無い ナビ検索で登れるが、道は細く急傾斜の生活道だ 久保小学校下(小学校プール下)の公民館駐車場に車をデポした(草むら) 休校中の久保小学校 |
小学校の上から小道に入り子継峠に向かう 学校裏のこの施設↑から 小道に入り ここから山へ 学校グランドの隅、桜の下に登る道が有りそこを登っても良い 子継道と教わっていたが、あれ、黒河道(くろこみち)と書かれている?? 理由は知らないが、今世界遺産追加登録の話が出ていると聞く。 廃村、黒河村を通る道は、あまりにも悪く急坂で手っ取り早い事ら、コースを登録に係っているのかと疑うショウタンだ 多少の手入れも有ったのだろうが、子継峠までは自然道で状態は良い 何の疑いも無く道を登れば、子継峠に出る道だ だが、登山的に現在地を探り、見える山々を山座同定しようとすると本当に難しいコースだ 読図も大好きな相棒に、先ずその難題を投げかけた 先ず、四等三角点、滝の又に読図だ。地形と現在地、道の位置、頭を悩ませながら遠回りだが、その位置に行き着いた相棒、流石だ 少し遊び、地図に載る道を、子継道に帰り、子継峠に向かう 四等点、滝の又 |
少し遊んだが、私自身も現在地は何処だろうと本当に読みにくいコースだが、疑いが無ければ道通り登れば先ず迷いが無い単純道だ 現在地をはっきりと掴んだのは、高圧線下の位置から上で、それまでは??、と二人の意見は合わない |
一度通った経験からショウタンは位置は読めるが、相棒は額に汗を流す それでも道は単純で、登れば案内やマークは少し有る と、 雪池山に直登する、四等三角点雪池山が乗る尾根先で、アララ、マタマタ黒河道の道標が出たが、未だカバーを被せたままだ これから、黒河道としてのデビュー待ちか?? 行政のする事は私の頭では理解できないが、ここはくろこ道なんだろう。 雪池山(ゆきいけやま)への直登案内もある |
子継峠に向かう。 途中にマタマタ、道標が出る この道標位置は、少し前まで子継峠から雪池山に登る分岐だったが、今は女人道の尾根から直接行かれる方が多いようだ。 私も帰路はその尾根から雪池山に行った。 近いようで案外時間がかかる子継峠だ ここでも黒河道の道標が完成していた。 予定では、ここから雪池山下山だったが、奥の院、御廟に行くことに変更した 天軸山に向かって素直に下れば良いが、途中に有る道標を見て、素直でない二人は、途中からもう利用者がほとんど無い、木道の散策路に入った。 散策路の木道板は腐り踏み抜きそうだが時には利用者がいてるようだ 三本杉分岐に出ると案内がある 木道が終わると踏み跡は薄いが、高野山の本当の自然が見られるコースで、ブッシュなどは無い 途中林道などに出た 古い何方かのマークが有ったので地図も見ないで歩いたが、少しややこしい部分もあった |
奥の院、御廟前はすごい人だ。 先ず、弥勒石を持ち上げ、ショウタンが善人である事を証明して(汗)御廟に手を合わせた 面白い記事があったのでリンクしておきます 写真撮影は禁止で写真は無い |
水向地蔵前から、もと来た道に入り、三本杉から直登で楊柳山に登ろうとしたが、分岐を見落とし、ハイキング道から高野三山周回路(女人道または高野三山道)に突き上げた。 途中にログハウスが有り私有地のようだ 林道風道が終われば、尾根の小道を汗を流しながら登った。 平日といえども、高野山周回路の道は人気かツアー登山客が多い。 楊柳山で遅い昼食を楽しんだ。 福井県から来られた方達は、これから周回はできるかとの尋ねには汗を流した。 無理無理、摩尼峠から登ってきたらしいが、それでも道を間違ったという。 楊柳山山頂と三角点楊柳山1008.63m 点の記を調べて気がついたが、地理院地図では子継道はすでに黒河道と書かれている。 選点36年5月15日 |
楊柳山から高野三山周回路(女人道)から尾根通しで雪池山に向かった 尾根は笹ブッシュだったが、子継峠からの旧道より歩き良い踏み跡が出来、ある程度スズ竹も切られている 下って登り返せば雪池山(銅ヶ岳・あかがねだけ)山頂だ。 |
ここから破線道に下るバリエーションだ 多少の笹ブッシュを覚悟していたが、アララ、尾根は美しく、植林は間伐され、隙間から橋本の町などが見えた ルンルン、相棒に読図は任せ、ふー、疲れた 破線道の状態は分からない、地形的にそれを読み取れる付近に尾根を選び下る 道は状態良く残っていた |
少し急坂を下ると、鉄塔管理道の道標が出た 管理階段跡を下ろうとしたがこれは道ではなく、荒れ、直ぐに道が無くなり引き返す よくよく地図を見ると、その上にトラバース道が有るだろうと少し這い上がった 道は出た 前回お世話になった滝の又の、辰巳谷家の奥様を尋ねる事にした 煙突から煙が出ている。 ワンちゃんと共に元気そうだ 九度山町最奥の家といえる山中だが、立派な家は明るい谷間で野菜や水は美味しそうだ 相棒は水源で一口戴き、美味しいと一言 |
後は家裏の道を素直に歩けば往路に出る 黒河道出合いの倒木は、この道を利用する人が無い証拠か、黒河道と成った往路にでた |
紅葉が始まった久保小学校の老木桜の花を見る機会にマタマタ尋ねたい学校だ |
以前、この付近を案内していただいた玉川峡を守る会の井奥様に戴いた地図と、その資料を載せておきます 高野山は、宗教都市だがその周囲には、生活観が残る小道や集落跡、山、何度も訪れ、道は残しておきたい物だ |
高野山古道に興味の有る方、長文ですが是非お読み下さい |
和歌山県教育委員会が2012年に作成した調査資料の抜粋 昭和初期から利用されなかったために、参詣登山者がもっとも難儀した「いろは坂」、「外の不動堂跡」や「岩不動」、罪人を処刑した急峻な「万丈ころがし」、三叉路に立つ「道標」と「花折り坂」の大きな「花立」など『紀伊名所図会』に登場する史跡を復活させることができ、少なくとも中世から江戸時代までの参詣道の姿をそのままに保っていることは貴重で ある。 また、現在、不動堂から高野山駅までのバス道によって切断されているが、「女人大門道」から不動坂に抜ける山道も残っており、この旧道の整備は旧街道の様子を知る上で重要である。 (3) 京大坂道 京大坂道は、近世から昭和初期まで高野登山の主要参詣道であった。この街道は、京・大坂から高野山に上るのに、もっとも便利で安全なルートであった。 時間的にも町石道よりもはるかに早く高野山に着くことができた。 この街道は、おそらく平安時代中期頃から高野参詣の人びとが利用するところであったであろうが、胎蔵界百八十尊を象徴する町卒塔婆が立ち並ぶ町石道のように上皇や貴顕が必ず利用した参詣道というのではない。 しかし、この道は主要な高野参詣道を性格づけている条件を持っている。それは、高野山との関係を示す丹生神社と別当寺(日輪寺)が河根に建っていることである。 丹生神社の建立が伝承では応和2 年(962)とあるところから、参詣道としての成立をこの頃に置くことができる。 弘法大師入定信仰の成立する時期に重なっている。 また、日輪寺の寺伝では、江戸期の元和年間に仁和寺宮が高野参詣の休憩所として利用したとある。 河根の千石橋の建設の逸話にあるように大名家もこの街道を利用しており、江戸後期には貴顕庶民を問わず、この京大坂道を利用していたようである。 なお、高野参詣道の中で丹生神社の脇を通る街道が三本ある。一つが慈尊院の丹生官省符神社の脇を上る町石道であり、二つが三谷・天野道の登り口にある丹生酒殿神社の脇を上る道であり、3 本目がこの河根の丹生神社の脇を通る道である。 その意味で、高野参詣道を象徴する丹生神社の存在と尾根道を通る古代の道の特徴を持っていることから考えると、 この京大坂道も尾根道を通る道であることから、高野参詣道としての成立を平安中期頃と見るのが妥当ではないかと思う。 そして、近世の参詣道を象徴するものとして、「苅萱堂」の存在がある。この街道には学文路に苅萱堂が建っていた。現在はその境内地に真言宗西光寺が建っており、千里姫の墓(宝篋印塔)がある。 明治の末に南海電鉄が椎出(高野口駅)まで通じ、そこからかつての「まきの道」である「長坂」を上って神谷で京大坂道と合流し不動坂へ向かった。ほとんどの参詣者がこのルートを利用するようになる と、長坂に高野参詣道を象徴する新しい苅萱堂が建てられたのである。 この京大坂道には、現在も参詣道を象徴するものとして弘法清水のほかに、河根の千石橋、本陣屋敷、神谷の宿場跡、さらには参詣道を象徴する六地蔵や道標などが残っており、高野参詣道として残すべき価値を有している。 6 黒河道 (1)黒河道のルート 黒河は、江戸時代の絵図や文献では黒川とも記されているが、ここでは黒河と記名する。 また高野山では「くろこ」と読んでいる。 この道は、紀ノ川南岸の大和街道の清水・二軒茶屋から南に下る街道である。 大和方面から高野山へは距離的には最短の道であるが、途中で丹生川を渡るなど高低差の激しい山道を上下する為に、時間的不動坂と道標 には京大坂道の方が早い。 第5章 高野参詣道 31 このルートの拠点地をあげると、二軒茶屋から賢堂へ、真言宗定福寺の脇を通って坂道を上り、明星ヶ田和を経て丹生川を渡り市平、久保へと至る。 そこから西(右)に道を取ると粉撞峠を経て千手院口から山内に入るルートと、久保から東(左)に道をとり仏谷、黒河、黒河峠を経て粉撞峠で先の道と合流して千手院口から山内に入るルートがある。 ところで、この道のルートと名称を決定することは難しい面がある。文献や古地図、古絵図などに見られる峠や口の位置と名称が一定していないからである。 例えば、高野山絵図によっては、黒河峠の位置が楊柳山の東(右)にあったり西(左)にあったり、あるいは同じ口の記述が黒河口であったり仏谷口であったりするからである。 また、当然と言えば当然であるが、高野山側から見た絵図にはまったく記述されていない里道や峠が久保や黒河側から記述された絵図では描かれていたりする。 そのようなことから、このルートを決定するとき、他の街道では想定できない作業として、高野山側の史料だけでなく黒河村や久保村側の絵図や史料などから総合的に記名と呼称の調整をする必要がある。 (2)文献史資料上でのルート 一般に、黒河道あるいは黒河口と呼んでいる道は、人びとが黒河村方面から高野山内に入ってくる街道であると理解している。 基本的にはこの理解で正しいであろう。しかし、高野参詣道としての黒河道のルートを具体的に確定するとなると、一筋縄ではいかない問題が出てくるのである。 例えば、高野山側では、大和街道から清水の二軒茶屋、賢堂から久保小学校の北側に立つ「右かうや、左まにん 道」とある道標を「左まにん道」の方向にとり、黒河村、平村を経て楊柳山の東の黒河峠(口)から高野山内千手院口に入る街道を黒河道と決めている。 しかし、この説では久保小学校の道標が「右かうや道」とあるにもかかわらず、どうしてその指示を無視しなければならないのかがわからない。 このような疑問を考えるとき、これまでの理解(常識)が確実な史料にもとづいて実証的に理解して来たのかを考える必要がある。 もちろん先ほど述べたように、そもそも何が確実な史料であるかを決定することが困難であるにしても、現在残されている史資料を原点にルートを考える方法は妥当なやり方であると思う。 その結果、久保小学校の北側に立つ道標の指示にしたがって、道を右にとり粉撞峠を経て千手院口に入る道は、厳密には黒河道あるいは黒河口ではなく、清水と高野山を結ぶ高野街道である。峠は楊柳山の西の粉撞峠であり、口は大和口というべきである。 実際に、粉撞峠のところに大和口と記している絵図があったり、久保小学校作成の地図に「旧橋本高野街道」とあるところからもこの理解が実証的に妥当であることがわかる。 黒河村は、伝燈国師真然大徳の頃(9 世紀後期)に高野山建設に従事した人たちが住み着いた集落であることからも、高野山との関係は密接であり、「日常のほとんどの買い物は高野山であった」という聞き取り史料からもわかるように、黒河村や仏谷村などは高野圏の集落であったのである。江戸時代には「番太」の屋敷があったことからも、高野山にとって古くから重要な地域であったことがわかる。 黒河道 また、黒河村の人たちは「御番株」という役目で高野山奥之院燈明の油の補給を担当していたことがわかっている。 その対価としてお供物や下燈などのさがり物に恵まれていたことが文献に見える。 黒河口や峠は、おそらく毎日のように黒河村や仏谷村の人たちが通った峠であったのである。 橋本や大和方面からこの道を取ったとき、参詣者が久保の三叉路を右ではなく左にとり黒河村を経て黒河口や峠から高野山に入ったことも当然である。 しかし、黒河村の人たちが参詣のために峠を越えたことは考えられない。彼らは日常的には明らかに高野山を支えるために黒河道を通ったのである。 しかし、清水の二軒茶屋から高野山に向かい、久保の道標を右手にとり粉撞峠を越えて高野山内に入った人たちは、明らかに高野参詣を目的としたことは明らかである。 そうすると、雪池山(銅岳・あかがねだけ)の西を通る久保からの街道(高野街道)と黒河道が合流する粉撞峠こそがこの黒河道を参詣道にしている峠であることがわかる。 この峠の重要性を証明しているのが粉撞峠の地蔵菩薩立像石仏の銘文である。 そこで、この銘文の年代を考えながら、この街道の参詣道のルートを確定して見たい。 銘文は、「香舂峠、永正九 八月廿二日、[ 上部欠]十三年、検校重任」とある。 香春峠は「こつぎとうげ」と読むのであろうが、文献的には粉撞峠、粉突峠ともあり、現在は子継峠と表記している。 永正九年は、西暦1512 年である。500 年前に高野山の検校(座主)重任が造立したことがわかる。 この地蔵菩薩像は、明らかに境界を区切る峠の地蔵尊である。 この地蔵尊の存在は、何を明らかにしているのであろうか。すなわち、室町時代中期には、二軒茶屋 から高野山に向かい久保から粉撞峠を越えて高野山内の千手院口に至る高野街道が成立していたことを示しているということである。 この時から82 年後、当時の最高権力者が実際にこの街道を高野山側から清水の二軒茶屋に向かって駆け下りた。 このことからも、この街道がすでに高野参詣道として成立していたことを証明している。この最高権力者とは、太閤豊臣秀吉である。 黒河道 茶堂跡 茶堂弘法大師座像 第5章 高野参詣道 33 太閤秀吉は、文禄3 年(1594)3 月3 日、高野山に登山したとき、六日に歌舞音曲を禁じている山上で能楽を催した。そのためか、辺りが暗くなり、豪雨と共に雷鳴がとどろいた。恐れおののいた太閤秀吉は、馬に乗り、千手院口から粉撞峠を経て清水まで駆け下りたという話が残っている。 太閤秀吉が粉撞峠の地蔵菩薩像の側を通って雪池山の西側を下っていることは、この遁走の道がすでに高野街道とし て利用されていたからであり、馬道としても利用できたからである。 そこで、『紀伊続風土記』などの記事を参考にこのルートをたどってみたい。 それによると、太閤秀吉は、粉撞峠を越えて雪池山の西側の道を真っ直ぐに駆け下り、久保村から山道すなわち「姉子谷」「美砂子谷」「太閤坂」を通って市平に出て、「太閤の馬渡し」で丹生川を渡り、「わらん谷」(蕨谷)の道を通って明星ヶ田和を経て賢堂、二軒茶屋に下ったとされている。 この道が太閤秀吉が選択した高野街道であったのである。 現在の黒河道である市平から青淵へ回り、「わらん谷」東側の尾根道を通り明星ヶ田和に至る高野街道と区別するならば、「太閤道」と呼ぶ方がいいのかも知れない。 現在の地図では、「わらん谷」の道は消えているが、江戸時代の道路絵図や明治41 年の地図では街道に相当する道が記入されている。 青淵から明星ヶ田和への尾根道は、大正時代には「わらん谷横手」と記述されているところから、明らかに「わらん谷」道の脇道であったことがわかる。「わらん谷」道が沢に沿っているために消えたのに対して、この横手道は、尾根道のために消えることなく現在も使われているのである。 (3)黒河道の姿 久保の道標を右手にとり雪池山の西側を上り粉撞峠すなわち大和口へ出る道には、久保を過ぎて茶堂(おめん茶屋)があった。現在、その遺跡が残っており、お堂にあった弘法大師像や不動明王像は現在もある。 参詣人を受け入れる茶屋と大師像などの存在は、粉撞峠の地蔵尊の存在と共にこの道が高野参詣道であることを証明していると見てよい。 したがって、高野山側からは黒河道として捉えられている道は、仏谷や黒河村から楊柳山の東(右)の峠に出る道という認識が強いにしても、雪池山(銅岳)を西(東江村)から見た絵図(元禄年間作成)や九度山町史などでは、そのようなルートにはなっていないことがわかる。 すなわち、黒河から平を経由するのではなく、実際には急峻な坂道を上らなければならない平村を避けて、黒河村を過ぎて西(右)へ山道を取り、雪池山(銅岳)の東にある「ひうら坂」を経て黒河峠から粉撞峠で久保からの道と合流して千手院口へ入っていたのである(この黒河峠は、高野山側からは楊柳山の北側になるので見えない)。黒河道は、黒河 村を経由する道と粉撞峠・大和口で久保村からの道と合流する道として認識されていたのである。 これは、『紀伊国名所図会』の説明でもある。 いつの時代もそうであるが、遠方から来る旅人は、知らない村々を通過する時、相当緊張するものである。 古い街道は、山辺の道が代表するように、村の中を通るのではなく山側の外れたところを通っている。 参詣道を考えるとき、このことも考慮する必要がある。遠方からの旅人は、道標の指示に従ったり、旅人用の施設がある道を選ぶのである。 久保の道標が「右かうや道」「左まにん道」とあれば、黒河村に用事がないかぎり、「右かうや道」すなわち在所の人びとが高野街道と呼ぶ道を選択し、五百㍍ほど行くと傍らに「尾領松」が立っており、大きな鍋から道ゆく参詣者に振る舞われるミソ汁の湯気が上がる茶堂で休息し、石の弘法大師像や木造不動明王像にここが高野山の麓であることを実 感し、この道が高野参詣道であることに安心したのではないだろうか。 その意味で、黒河道の理解は、黒河村からの道に限定するのではなく、久保村からの高野街道を通る道も含めて、黒河村を経由するしないを問わず、久保から来る左右二つの街道が一つとなって粉撞峠から高野山内千手院口に入る道として捉えておくのが正しいと思う。 江戸時代の高野山絵図の中に粉撞峠を黒河口や大和口と記述していることからもこの理解で妥当であると思う。 |
黒河道学術調査抜粋 和歌山県教育委員会調査抜粋 人堂道」または「女人道」とも称されて絵図など描かれている。『紀伊国名所図会』(巻之四)には、「今は結縁のために結界の外郭を巡拝せしむといへども、……」と結界の道を巡礼する様子を窺わせる記述がある。 総延長約16㎞に及ぶ山道は比較的よく保存され、平成12 年度には『高野山女人道』としてその大半が高野町指定史跡となっている。 「高野三山」の道については、転軸山西側の登り口から右回りに辿れば、山頂を経て奥院周回道路と交差後、黒河道とも重なる粉撞峠(粉搗、粉突、子継峠などと記される。)への道を辿り、峠で分岐する尾根筋の道は楊柳山、摩尼山を経て摩尼峠に至る。 摩尼峠では旧摩尼集落から奥院への道と交差し、直進すると国道371 号線の隧道手前の尾根で分岐し車道に合流する。 杉、檜の植林や自然林の中を抜けていく山道であって山頂や峠に小祠、五輪塔、石の道標などがあり、遺存状況は良好である。 「女人道」についても尾根筋の山道は車道や林道と交差しながら、その遺存状況は概ね良好であり、小祠、五輪塔、石の道標、石仏などが道沿いの要所にある。 まず、高野山金剛峯寺の艮(北東)の入口にあたる黒河口女人堂跡から左廻りに辿れば、現在、その女人堂跡付近は町道によって分断されているため迂回して明神社から尾根筋に登る。尾根筋からは、杉、檜の植林を抜けて現存する唯一の女人堂がある不動(坂)口へと山道は続いている。 不動(坂)口女人堂からは、バス専用道に沿って狭小なコンクリート道・地道を登り、かつての京大坂道・不動坂から弁天岳、大門へと至る尾根筋の古道と接続する。山道は杉、檜の植林の中、谷上女人堂跡を経て弁天岳に登ると弁財天を祀る社殿などがある山頂に至る。山頂からの下りでは、大門口制札跡付近で高野山町石道から分岐してきた古道と合流後、さらに下って大門に至る。大門からは車道を横断して龍神口女人堂跡から杉木立の中、幅員3mほどの地道が「助けの地蔵」のある熊野辻まで続く。龍神・熊野への石の道標を東に熊野方面への山道を辿ると一旦舗装路に出再び山道に入り高野山霊宝館裏の舗装路に出る。尾根筋の山道を登って行くと相浦口の林道と交差し、地蔵石仏の道標に従ってさらに登った 後、急な坂を下ると大滝口女人堂のあった轆轤峠近くの林道に出る。林道は「小辺路」と重なり南東に進むと円通律寺への分岐を左に東へと山道を下る。 円通律寺を過ぎると地道であるが車道として拡幅された道を行く。分岐を左に北へと山道を進むと弥勒峠、峠を過ぎて分岐を右に行けば大峰口女人堂跡などがあり、植林の中を東に進むと最後に急な坂を下り、制札のあった大峰口跡、現在の「中の橋駐車場」付近に出る。 高野山結界道を構成する「女人道」及び「高野三山」の道の遺存状況は極めて良好であり、したがって史跡としての価値は高い。 2 不動坂 「京大坂道」は、『紀伊国名所図会』(巻之四)にある「登山七路」の一つであり、不動(坂)口、学文路口、神谷口、京口又は大坂口などとも称された。 不動坂は、高野山を眼前にして京大坂道の最後で最大の難所として知られていた。 木食応其の事績などが記された「興山上人橋本開基縁起」によれば、応其上人によって山麓の橋本に応其寺が開基され、天正15 年(1587)、紀の川に橋が架かるなど、渡し場のあった橋本が宿場や塩市によって栄えることとなる。『紀伊続風土記』(高野山之部巻之五十七)に「大坂口の通路甚艱𡸴狭屈なりと思わる今はさにあらす肩輿も借に便宜ありて女人堂まては到るなり室町日記を考るに太閤登御の日此等の路を開通せしならん」との記述もあり、江戸時代には街道が整備されて京大坂道が高野参詣の主街道となっている。 橋本の対岸にある三軒茶屋の渡し場から、清水、学文路、河根、神谷などを経て不動坂を登り高野山上の不動(坂)口女人堂へ至るルートであって、町石道よりも短時間で高野山に着くことができる。南海電気鉄道の高野線極楽橋駅付近から女人堂までの急峻で険しい不動坂は、大正初期に新たな道が並行してできたことにより利用されなくなった。その後、昭和初期に極楽橋駅から高野山駅間にケーブルカーが敷設されたことで、その新たな道も利用されなくなったが、結果として、不動坂が山中に取り残されたことにより改変などから免れ、古道として極めて良好な状態で保存されることとなった。 不動坂手前には弘法大師の足跡があるとされる「四寸岩」があり、神谷集落近くまで女人堂への距離などを示す石の道標が並ぶが、かつての桟橋が朽ち果て通行不能となっている。不動坂の登りはじめには「いろは坂」、尾根筋に出ると罪人の処刑場跡「万丈転がし」、「外の不動(堂)」跡、馬廻道との辻に今回の調査で地中から掘り起こされた石の「道標」、稚児の瀧を見下ろす「岩不動」などがある。「外の不動(堂)」は大正9年に移築されており、「清不動堂)」とも呼ばれている。その手前で舗装路と交差して、堂の裏手から「花折坂」を登りきると今回の調査で地中から掘り起こされた2基の「華瓶」、さらに左手に供養塔、不動明王、地蔵菩薩の石像が並ぶ。再び舗装路と合流後、弁天岳から大門へ至る尾根筋の古道との分岐を経て不動(坂)口女人堂までには、『紀伊国名所図会』(巻之四)で描かれている 多くの史跡が不動坂に点在する。 不動坂は平成23 年度の古道整備により再び高野参詣道としてよみがえり、その遺存状況は極めて良好であることから史跡としての価値は高い。 3 黒河道 黒河道は、『紀伊国名所図会』(巻之四)に「橋本邊よりの近道」とある「登山七路」の一つであり、黒河口、久保口、大和口、千手院(谷)口そして粉撞峠を越えることから粉撞峠口などとも称された。 同書には、「黒河村より来ると、野平村より来ると、 粉撞峠にて二路合して、千手院谷に入る。」とある。「黒河村まで五十餘町(約5.5km)」とするのが黒河口、「野平村まで百二十餘町(約13km)」とするのが橋本・大和方面への道、大和口である。 『太平記』に「光厳院禅定法皇行脚事」として法皇の高野山御参詣と御下向について記述がある。「行末心細き針道を経て御登山有りければ、山也山、水又水、登臨何日盡さんと、身力疲れて……」との 針道(高野山町石道)登山の様子に対して、「御下向は大和路に懸からせ給ひしかば、道の便も能とて……」とあるのが高野山から吉野(大和)へ向かう下山の様子についての記述である。 黒河道は橋本近辺から奥院又は高野山千手院谷への近道であり、「千手院(谷)口」とも称されたが、高野山文書代表する『宝簡集』に編纂された「禁制 條々」(応永21 年1414)に、「旅人引制札案文千手院口に立つべし」との端書があり、参詣人を誘引する事などを禁じている。 橋本から高野山への最後の難所として粉撞峠を越え、その制札が立てられた千手院(谷)口に至る。 『紀伊続風土記』(總分方巻之十一)の記述によれば平清盛が「金堂の曼荼羅を此院にて図せられしとそ」とする曼荼羅院が千手院谷にあり、その院主検校重任(金剛峯寺座主)が、粉撞峠に地蔵石仏(永正9年1512)を建立していることが今回の調査で確認された。 「千手院谷」は、念仏を唱える高野聖三大集団のひとつ千手院聖(時宗聖)の本拠でもあった(『高野聖』五来重著 角川新書1965)。 なお、山麓の橋本市賢堂付近では、高野山へと向かう黒河道沿いの尾根筋に「念仏尾」、「堂の尾」、「聖尾」、「傳道坊」などの地名もあり、高野山で広まった念仏の影響が山麓周辺地域にも及ぼしていたことが指摘されている。 橋本のまちを開基した応其上人は、千手院谷瀧城院に寄宿していた日々があった。また、橋本の南西、黒河道沿いに聳える国城山と寺院名で繋る千手院谷国城院では、応其上人が月並連歌興行を始めたことが『紀伊続風土記』(總分方巻之十一)に記述されている。 奥院御廟橋手前に、「木食所」と呼ばれる建物があって、応其上人はそこを拠点として勧進活動を行う高野聖を支配していたとも考えられている(『特別展没後四〇〇年木食応其-秀吉から高野山を救った僧-』和歌山県立博物館2008)。なお、豊臣秀吉下山の折り応其上人が同行したと考えられる道も千手院谷から橋本への山道であったことが『紀伊続風土記』(巻之五十一、高野山之部巻之十一、總分方巻之五)などに記され「此を今に太閤道といふ」との記述がある。 高野山絵図のなかで黒河口女人堂付近から山外に出る道を「丹生川道」としているものがある。 第8章 史跡としての価値 71 『紀伊続風土記』(巻之四十五)に「村領の内三尾川領東郷村と北又郷の間に斗折蛇行して長く突入り銅ヶ嶽の地に至るあり其所を雪生といふ」とあるように旧丹生川村の土地が銅ヶ嶽(雪池山)まで細長く繋がっていたとすれば、雪池山頂上付近に丹生神社の社地があることから旧丹生川村から山頂までの道の存在と、東郷と北又の両大字界付近を通っている黒河道(太閤道)との繋がりが窺われる。 黒河道(太閤道)は、旧丹生川村の東で「わらん谷(藁谷・蕨谷)」を通過するが、その名称について『紀伊続風土記』(巻之四十五)に「藁蓋谷の義にて鎮座所のよしにいへるか」とあるように「わらん谷」と丹生川丹生神社との関わりを示唆する。 丹生神社の起源を考えると伝承では成立年代を慶雲(704 ~ 708)以前としていることから金剛峯寺 創建より古く、絵図に黒河口女人堂からの道を「丹生川道」としているものがあるように、黒河道(太閤道)は、丹生神社の別当寺である円通寺と高野山との往来などに利用されるなど、旧丹生川村との繋がりが窺われる。 江戸時代の『高野山領の図』(金剛峯寺蔵)に高野山の領地を結ぶ道筋が描かれていることから黒河道(太閤道)を辿ることができる。それによると高野山から黒河・佛谷を経て久保、又は高野山から直接久保へと続き、市平・賢堂・河南大和街道に繋がる。『九度山町史』(九度山町史編纂委員会 昭和40 年、平成16 年、平成21 年)によれば黒河道は高野山千手院谷から黒河・久保・美砂子・市平・青淵・明神ヶ田和・清水を経て橋本までとしている。また、九度山町公民館報に昭和34 年7 月から35 年9 月まで転載された郷土史家による『玉川四十八石附仝和歌古今集』に「橋本から明神ヶ田和を越え、市平、久保、黒河を通り奥の院の裏に出るのを裏参道としたのは……」とあり、裏参道(黒河道)のルートが挿し絵に描かれている。 現在、橋本の紀の川対岸にある二軒茶屋周辺は区画整理や南海電気鉄道高野線の軌道などにより街道は大半が原形をとどめていない。 したがって鉄道の踏切を渡り一段高い賢堂地区にある定福寺近辺が実質の起点となる。そこから国城山東麓の明神ヶ田和まで市道が整備されているが、そのカーブをショートカットするように、また、並行して古道が五軒畑集落、弘法井戸のある鉢伏集落を繋ぎながら峠(明神ヶ田和)を越える。峠を斜め左に進むと林道(市道・町道)となって青淵集落付まで続き丹生川を渡るが、集落手前の未整備区間に改変されていない山道が良好に遺存している。一方、峠から直進するとわらん谷(藁谷・蕨谷)であり、急な坂を下り周辺集落の水源地に至るまで舗装路が続いている。その区間は古道なかば消滅してしまっているが、簡易水道の取水施設を過ぎると谷沿いの道が良好に遺存し整備も進められている。 県道宿九度山線と交差してからは、丹生川を渡るために町道の市平橋を渡り市平集落へ向かうが、少し上流に現在通行止めとなっている吊り橋の上市平橋があり、その北詰に地蔵菩薩及び弘法大師の石像が祀られて「為往来安全」の 文字が刻まれている。市平集落を過ぎると大師堂及び観音堂のある観音寺跡並びに桂の大木が聳える春日社から十九折りの坂を登る。林道に合流するまでには見過ごしがちであるが地蔵石仏もあって、植林の中に道は良好に遺存している。 林道と交差して戦場山東側の中腹をほぼ水平に行く道は、太閤坂と呼ばれる戦場山の迂回ルートであって、倒木処理等の整備が必要な箇所があるものの遺存状況は良好である。 また、林道終点近くから戦場山を越える道は、山間の休耕田や植林された水田跡の中を縫うように登る山越えのルートとなっている。 両ルートが戦場山南側の久保小学校手前で合流し、観音菩薩と弘法大師が彫られた石の道標にも「往来安全」の文字が刻まれている。そのまま直進すれば地蔵石仏を祀る粉撞峠へと向かう太閤道であって、「茶堂(茶屋)」跡及び通称「大黒岩」並びに室町期からの五輪塔残欠群がある「高野豆腐製造所」跡などが道沿いにあり、粉撞峠手前の国有林内に道幅の狭小な箇所があるものの、山道の遺存状況はほぼ良好である。 一方、小学校手前を左にとれば舗装された町道を進み、さらに黒河林道を行く。林道の終点から「ひうら坂」を登り雪池山の南にある黒川峠から粉撞峠を越える山道が古来からの黒河道と推測される。 町道、林道に並行して残っている古道は、全体的に踏み込まれた道としての形跡が薄く、なかば消滅しかかっている。また、「ひうら坂」については、道の遺存は認められるものの荒廃の著しい箇所があって整備方法など検討を要する。 粉撞峠には地蔵石仏を祀る小祠と石の道標が並び、峠を下る山道は高野町指定史跡『高野山女人道』とほぼ重なるが、転軸山には登らずに巨木が聳える一本杉から高野町役場手前の黒河口女人堂跡に至る。 転軸山麓から黒河口女人堂跡までの区間は、車道と住宅地の中などにあり原形をとどめず特定が困難な部分がある。 「ひうら坂」を通らず、旧黒河村平集落跡を経て楊柳山の東側、現在黒河峠と称されている桜峠(黒子辻)を越え、奥院裏に至る道を「黒河道」としてハイキングルートなどでも紹介されている。しかし、高野山絵図や『紀伊続風土記』(高野山之部巻之六)では「佛谷道」となっていることから、「ひうら坂」が通行されなくなった後、「黒河道」と称されることとなり現在に至っている可能性が高い。 いずれにしても、奥院に至る最短ルートでもあることから江戸期にはよく利用されていたことが道沿いにあり、又は別の場所に移動している弘法大師像などの石仏の道標などから推測できる。石垣の残る平集落跡の沢沿いと植林された山中に道は概ね良好に遺存している。 野平集落近くに「右 おくのゐん」と刻まれた地蔵石仏の道標があることから納骨など奥院への道でもあり、裏参道として貴顕の通行を物語る伝承がある黒河道(太閤道)は、奥院及び千手院谷に通じる高野参詣道であり、史跡としての価値は高い。 4 大峰道 大峰道は『紀伊国名所図会』(巻之四)にある「登山七路」の一つであり、大峰口、東口、野川口などとも称された。大峰・洞川から奈良県境の天狗木峠を越えて桜峠から高野山・奥院に至る道であって、「俗此道筋を七度半道といふ。一度此道より登詣すれば、功徳七度半にあたるとぞ。」と大峰山・高野山という二つの霊場を結ぶ道として、その霊験功徳 について記している。 巡礼道として江戸時代の道中記が残され、道沿いには役行者を浮彫した石の道標も点在している。修験の道、空海抖擻の道と同様、高野山と山上ヶ岳を結ぶ道であって成立時期は中世に遡るとされる。 『紀伊続風土記』(高野山之部巻之六)に「大峯道橋の東にて右路は奠供木峠に至り左路は摩尼荘へ至る」とあるが、大峰口からの右路は桜峠近くまで車道や住宅地内にあってなかば消滅して原形をとどめていない。 左路については国道371 号の舗装路から分岐して隧道上で摩尼峠からの道と尾根筋で繋がる。 大峰道は、大峰・洞川から山上川、天ノ川、中原川などの川筋の集落を繋いだ街道ルートが奈良県境で天狗木峠を越える道となり、また、尾根筋を通るとされる修験道ルートが天狗木峠近くで車道と合流して、その両ルートが峠で交わっている。天狗木峠には、役の行者像の石の道標があり、立里荒神社と 高野山へ舗装路が分岐する。 高野山への車道途中に立里荒神社への旧「こうしん道」の分岐があり、宿があったという桜峠では、車道と摩尼峠に向かう尾根筋の道が分岐する。山道は国道371 号線の隧道上を過ぎ、地蔵石仏前に横たわる「こうしん道」の石の道標近くで「高野三山」への道に繋がる。植林の中、尾根筋の山道は若干の整備が必要であるが良好に遺存し史跡としての価値は高い。 5 西国街道 『紀伊国名所図会』(巻之四)に「府下より登るものは、麻生津峠より志賀郷を経て、矢立にて此道に合し、大門に入る。……」とあるように、西国街道は、「登山七路」の一つ大門口、西口、矢立口などと称された表参道「高野山町石道」とは、梨木峠を越え花坂を経由して矢立で合流する。麻生津口、若山口又は麻生津街道、わかやま街道などとも称され た道である。 山麓の麻生津には茶屋・旅舎があって、絵図に麻生津峠での茶店の賑わいが描かれている。また、『紀伊続風土記』(巻之四十九)には、花坂について「麻生津よりの高野街道にて旅舎多く駅舎の体山家の趣なし」とその街道沿いの賑わいの様子が記されている。 第8章 史跡としての価値 道沿いの石の道標や地蔵石仏などは、江戸時代のものがほとんどであるが、麻生津峠近くのかつらぎ町御所に南北朝時代のものと推定される五輪塔などがある。また、花坂の集落に入る手前の道沿いには、通常の2 倍以上の大きさがある一石五輪塔、川を隔てた山腹に室町時代のものと推定される五輪塔などがあり、仁和寺門跡の御陵、隠棲庵跡などがあったと伝えられている。 元禄期に編纂された『高野春秋』などに登場する高野山の再興や中興を成し遂げた高僧の記録や逸話に麻生津峠などが舞台となっているものがある。 このことから、西国三十三所第三番札所の粉河寺と高野山を結ぶ西国街道と称された道の成立時期は古く、平安時代に遡るとされる。 山麓の麻生津から観音堂や六地蔵のうち「三の地蔵」がある麻生津峠を越える道は舗装路が続くが、清川から「四の地蔵」のある日高峠を経て石の道標が並ぶ市峠までの間、そして距離は短いが、梨木峠「五の地蔵」のある前後については、植林の中、山道が良好に遺存しその価値は高い。 6 三谷坂 三谷坂は、かつらぎ町三谷の丹生酒殿神社から笠松峠(古絵図及び地名には三谷峠とある。)を経てかつらぎ町天野の丹生都比売神社に至る急峻な峠越えの坂道である。 かつては紀の川にあった船着き場「三谷津」あるいは河南大和街道からの分岐を起点とした「天野道・三谷道」の一部でもある。高野山へは笠松峠から直接六本杉峠(天野辻)又は丹生都比売神社を経由して高野山町石道に合流し高野山大門に至る。 道沿いには、「笠石」、「鉾立岩」、「涙岩」、「頬切地蔵」、「的岩」など多くの史跡が点在し鎌倉期まで遡るとされるものがある。天野丹生都比売神社の神主による紀の川での垢離や三谷での祭祀など天野との往来が金剛峯寺創建より古くから続いているとすれば、三谷坂は平安前期をさらに遡ることも考えられる。 また、高野参詣について、京都仁和寺門跡が辿った記録などから三谷坂が利用されている。坂道は、麓から丘陵の中腹にかけて果樹栽培の作業道となっているが、上部では、杉の植林地内を地道が続いている。 三谷坂は大規模な改変はされておらず、古代からのルートと形状を保持しているものと考えられ、平成23 年3 月には丹生酒殿神社西側から県道志賀三谷線に交差する笠松峠付近までの約2.5㎞の部分について県史跡指定を受けている。 笠松峠から上天野、又は六本杉峠まで、そして上天野から六本杉峠までの道についても植林の中、良好に遺存しその価値は高い。 第3節 関連文化財 1 勝利寺 勝利寺は、表参道高野山町石道の起点がある山麓の慈尊院からおよそ300 mの町石道沿いに一段高く位置し、萬年山世尊院とも称された。 本尊とする平安後期作十一面観音菩薩(町指定)は、『十一面観自在菩薩心密言念誦儀軌経』によれば、離諸疾病を はじめ10 種類の現世での利益(十種勝利)と4 種類の来世での果報(四種功徳)をもたらすとされ、また「勝利」とは仏教語で「勝れた利益(りやく)」を意味している。 当寺については、弘法大師以前の創建として、高野山開創時における天野を経て高野山への登山時の寄宿、慈尊院伽藍建立時の役割などについて伝承が残っている。高野山開創後も有力者の難病治癒伝説、仁王門再建時の奥院神木「明遍杉」の使用、大師及び母公の所持物並びに貴顕による寄進の仏像など多くの宝物類があったことが『紀伊続風土記』(巻之五十、高野山之部巻之二十二)などに記されている。 また、本尊参拝について江戸初期一無軒道冶著の「高野山通念集」では「高野の僧侶一國の里民物詣し奉り、貴賤袖をつらねて、道もわかたぬ群集、……」と高野山からの僧侶と参拝者による賑わいの様子が記されている。 『高野春秋』には、当寺の境内地に高野山の伽藍炎上による堂塔造営に関わった紀伊守大江景理(長徳4 年(998)任官)の墓所があるとの記述があり、さらに、勝利寺墓地及びその周辺には室町時代の石造物が数基、また、今回の調査で時代は下るが本堂奥の竹藪からは天正期の五輪塔群が確認された。 『紀伊続風土記』(高野山之部巻之二十二)には、「後白 |
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