高野山、豊臣秀吉逃げ帰りの道
黒河道と子継道
市平から雪池山
2016/02/06
単独

地図
千場山は戦場山が正しいかも

大きな地図にリンク

コースタイム
市平橋09:35-林道10:40-久保小学校11:18-子継峠12:58-雪池山13:25
登り3時間50分、休息除く
下り
雪池山13:50-豆腐屋敷14:15-瀧の又一軒屋14:56-千場山16:04-市平17:05-市平橋17:15
3時間25分少し休憩あり
高野山は歌舞音曲を禁止されていた。
天下を取った豊臣秀吉が、高野山で歌舞音曲をもようした。
と、神のたたりか雷鳴が轟き、秀吉が子継峠、黒河道と下り、麓の隅田にある利生護国寺に逃げ降りたと言う話を語り部から聞いて久しい

高野七口、高野山には七つの参道が有ったという。そんな中でも比較的マイナーな、黒河道(くろこみち)と子継道(こつぎみち)を歩き、秀吉が逃げ降りた古道を探索した。

参考ページ 高野七口再生保存会

黒河村について

7、黒河道にまつわる伝説
 文禄三年、1594年、高野山青巌寺、現金剛峯寺において山内禁令の能狂言を催した豊臣秀吉は、急な雷雨を大師の怒りと感じ、麓の隅田にある利生護国寺まで黒河道を馬で駆け下りたという。
 この下山は、「紀伊の国名所図会」によると「此峠、(黒河峠)の西を越えられしいひ伝う」とあるので下り始めの部分は黒河峠ではなく、揚柳山西の粉撞き(こつき)峠
(子継峠)を経て久保に出た物と推測されます。
あくまで言い伝えの域を出ない話ですが、高野山の禁制を破る事による報いは、当時の最高権力者をも恐れさせる物であったと言う事でしょう
黒河道は以前、県主催のハイキングで歩いた事があり、語り部や、地元の方に話を聞き、興味が出て数度付近を歩いた
その時聞いたのが、秀吉逃げ帰りの道だ。
前日帰宅が1時前と遅く、7時まで寝てしまった。出発は遅い

九度山町の市平橋 の手前の凸地に路駐して市平に車道を登る
  
市平の右手民家の下から黒河道の太閤坂に取り付く。市平は桂の木が町指定の天然記念物で先ずそれを目指して登る
  
民家下の取り付き

民家下の桂の木の案内を見つければそこから黒河道に入るが、少し??と感じるが、桂の木が有る神社を目指そう
  
途中の分岐に案内が無い、神社を見つければそこから道なりに登れば良い、
地理院破線道とはコースは違うが、道は分かりよく、古道の証である地蔵や祠が出る。
思ったより疲れる太閤坂だ。この道を太閤秀吉が逃げ帰ったものだろう。地元民は太閤坂と呼んでいると、高野七口の会の方の話
  
突然林道に飛び出す。此処に小さな道標が出た。
此処までは、黒河道のみだが、小さく太閤坂の道標だ。
前回は、阡場山を越えるルートが黒河道でそれを越えて久保のタワ(久保小学校)に出たが、見えにくいが正面に下り坂の小道が有る
これも黒河道で太閤坂だとリンクしている高野七口保存再生会の方がおっしゃった。
  
                               太閤坂下り口↑

最近整備されたのだろう歩きよい太閤坂を下った。下ると廃田が出る
  
                              この案内を見落とすな

田の周り道を歩けば整備が有る方が黒河道だ。
阡場山越えの道はやや厳しいが、此方はフラットだ。高野七口保存再生会の方たちだろうか、整備が有った
  
小さなため池が出て、その先に大きな廃屋、廃屋の上で阡場山越えの道に出る。
豊かな集落だったのだろうな
久保小学校に飛び出す
道祖神が道横に有り、小学校付近を久保のタワという
  
戦場山が正しいかも
地図でも分かるように今回歩いた登りの赤線道はフラットで歩きよかった。
久保田和の捺印所横から子継道に入る。お寺風の建物前を登ってゆくが、フラットな小道だ。
電話線が瀧の又の一軒家まで延びている。
  
子継道の取り付きが分かれば後は整備の有る子継道だが、地理院道と子継道は違い、子継道は地図に反映されていない
途中で現在地を失ってしまって少し焦ったが、道標通り登れば適宜に案内が有る
  
左手に鉄塔が見えやっと現在地を高圧線から掴んだ。

休憩無しで歩き通す。1時に雪池山に着かなければ下山はヘッデンだろう。 急いだ
現在地が掴めなくても道整備が良かった。案内もあり先ずコースを外す事は無いだろう
雪池山下付近に出れば小さな案内が出る。
  
先ずは子継地蔵のある子継峠を目指した。
両杖で速度を上げる。一度廃道風になっていた雪池山下付近も整備されたようだ。
子継峠に出て、女人道を登り返し、尾根から雪池山を目指した。
子継道の途中に雪池山分岐はあるが子継峠から遠回りだ

この子継峠から太閤秀吉は逃げ帰ったのだろう。
橋本の隅田まで馬なら4時間程度かな?、それにしても戦国武将は乗馬技術に長けていたのだろうな
  
子継峠の子継地蔵                    女人道登り                       尾根から雪池山に
山頂は雪も無く穏やかだ。
やっと休憩だがユックリとできない。インスタントラーメンとショウタン自家製のオムスビをほうばった
 
下山は最短で下ろうとコンパスを取り下った
最初は急傾斜だが尾根は穏やかになり、四等三角点、雪池山を確かめ現在地を掴む、
下山は極力黒破線を下ろうと地図を読んだ。
尾根中央に測量杭が有り、測量杭が道案内だが、間伐材がやや邪魔をする。
緑の線が下りコースだ
  

  
                               尾根に入る ↑                       尾根道

下ってゆくとコンクリの貯水タンクと地蔵か何かの石が、??(どうやら豆腐を絞る重石の石か??)
  
その先の平地で直径7〜80cmの碾き臼が出た
  
此処が豆腐屋敷跡で、此処で高野豆腐の生産を行っていたと聞く、水は貯水タンクに溜めていたのだろう
すごい動力だ。
この先で、一軒家の瀧の又の民家で尋ねたが、米以外に多くの大豆が生産されたのだろう
少し道が分からず尾根を下った。鉄塔からの見晴らしは良く、その先で歩き注意の測量道、現在地読みなど出来ていない
降りを急いだ。下れば登り道に出会うはずと鉄塔から登ったであろう破線道にコンパスを取っている
  
こんな山中にと、と思うところに花木の伐採跡が出た。
下る。
登りに見た作業小屋が出て、ヤレヤレこの下が道だと確信した
  
時間を逆算すると瀧の又の一軒屋に立ち寄れるし、黒破線の小道を確かめられる。
入り口を間違ったが、電話線が出てその先に民家が有る事の確信だ出た。
やはりその先に民家が出た。
80歳くらいだろうか、奥様が屋根のトユの落ち葉を掃除していた
  
立派な民家だ。
奥様に豆腐屋敷跡の事や瀧の又に付いて教わった。奥様も瀧の又の小字から、滝でもあるのかと若い頃探索したというがそれは無いという
この地は、奥様のお爺さんが17歳で入植して開いたという。三代前の話だ。
今その田は植林化され手入れも無く痛々しい。
奥様に小道を尋ね、黒破線を歩き、四等三角点、瀧の又確定して久保に出た
  
久保小学校に下った。
廃校ではなく休校の久保小学校、モウ復活する事は無いだろうが、古道探索ツアーの休憩所や集会所として使われているのか??立派な木造だ
朝礼台やバスケットのゴール、二宮金次郎像に百目箱、耳を澄ませば子供達の会話が聞こえる
山里の小学校、極最近まで生徒が通ったのだろう。
朝礼台に登れば、第一体操はじめ、なんて、小さくジャンプをしてしまうショウタンだ
  
道祖神横から往路に入る。直ぐ先で分岐するが、三等三角点、河根(かね)が乗る阡場山に向かう。
やや急坂を急ぎ登った。尾根に出てそこから直ぐ上の河根を踏んだ。
  
三等三角点 河根の点の記
北緯34°15′47″.0720 東経135°36′23″.6531 標高650.04
選点明治36年5月25日 設置明治36年5月26日 最近測量平成21年10月13日
所在地 和歌山県伊都郡九度山町北又415番地
峠から下りこむが、谷は田の跡に植林された木は旨く育たないようで倒木も目立つ。お世辞にも古道の雰囲気は無い
 
道なりに下り上ると林道に飛び出す。
林道を歩いてゆけば、太閤坂と書かれた小さな看板の分岐に出る
此処から、市平にむかって下る
 分岐はマークが多く打っていたが、市平の案内は無い
市平に下った。
ヒッソリとした市平、無住の集落になるのは近いかも??
車をデポしたいちだいら橋に急いだ
 
戻る

奥高野に戻る