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黒河道、学術資料抜粋
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黒河道
1 人堂道」または 「女人道」 とも称されて絵図などに 描かれている。『紀伊国名所図会』(巻之四)には、 「今は結縁のために結界の外郭を巡拝せしむといへ ども、……」と結界の道を巡礼する様子を窺わせる 記述がある。 総延長約 16㎞に及ぶ山道は比較的よく保存され、 平成 12 年度には『高野山女人道』としてその大半 が高野町指定史跡となっている。 「高野三山」の道については、転軸山西側の登り 口から右回りに辿れば、山頂を経て奥院周回道路と 交差後、黒河道とも重なる粉撞峠(粉搗、粉突、子 継峠などと記される。)への道を辿り、峠で分岐す る尾根筋の道は楊柳山、摩尼山を経て摩尼峠に至る。 摩尼峠では旧摩尼集落から奥院への道と交差し、直 進すると国道 371 号線の隧道手前の尾根で分岐し車 道に合流する。杉、檜の植林や自然林の中を抜けて いく山道であって山頂や峠に小祠、五輪塔、石の道 標などがあり、遺存状況は良好である。 「女人道」についても尾根筋の山道は車道や林道 と交差しながら、その遺存状況は概ね良好であり、 小祠、五輪塔、石の道標、石仏などが道沿いの要所 にある。まず、高野山金剛峯寺の艮(北東)の入口 にあたる黒河口女人堂跡から左廻りに辿れば、現 在、その女人堂跡付近は町道によって分断されてい るため迂回して明神社から尾根筋に登る。尾根筋か らは、杉、檜の植林を抜けて現存する唯一の女人堂 がある不動(坂)口へと山道は続いている。不動(坂) 口女人堂からは、バス専用道に沿って狭小なコンク リート道・地道を登り、かつての京大坂道・不動坂 から弁天岳、大門へと至る尾根筋の古道と接続す る。山道は杉、檜の植林の中、谷上女人堂跡を経て 弁天岳に登ると弁財天を祀る社殿などがある山頂に 至る。山頂からの下りでは、大門口制札跡付近で高 野山町石道から分岐してきた古道と合流後、さらに 下って大門に至る。大門からは車道を横断して龍神 口女人堂跡から杉木立の中、幅員3mほどの地道が 「助けの地蔵」のある熊野辻まで続く。龍神・熊野 への石の道標を東に熊野方面への山道を辿ると一旦 舗装路に出て再び山道に入り高野山霊宝館裏の舗装 路に出る。尾根筋の山道を登って行くと相浦口の林 |
2 三谷坂は大規模な改変はされておらず、古代から のルートと形状を保持しているものと考えられ、平 成 23 年 3 月には丹生酒殿神社西側から県道志賀三 谷線に交差する笠松峠付近までの約 2.5㎞の部分に ついて県史跡指定を受けている。笠松峠から上天野、 又は六本杉峠まで、そして上天野から六本杉峠まで の道についても植林の中、良好に遺存しその価値は 高い。 第3節 関連文化財 1 勝利寺 勝利寺は、表参道高野山町石道の起点がある山麓 の慈尊院からおよそ 300 mの町石道沿いに一段高く 位置し、萬年山世尊院とも称された。本尊とする平 安後期作十一面観音菩薩(町指定)は、『十一面観 自在菩薩心密言念誦儀軌経』によれば、離諸疾病を はじめ 10 種類の現世での利益(十種勝利)と 4 種 類の来世での果報(四種功徳)をもたらすとされ、 また「勝利」とは仏教語で「勝れた利益(りやく)」 を意味している。 当寺については、弘法大師以前の創建として、高 野山開創時における天野を経て高野山への登山時の 寄宿、慈尊院伽藍建立時の役割などについて伝承が 残っている。高野山開創後も有力者の難病治癒伝説、 仁王門再建時の奥院神木「明遍杉」の使用、大師及 び母公の所持物並びに貴顕による寄進の仏像など多 くの宝物類があったことが『紀伊続風土記』(巻之 五十、高野山之部巻之二十二)などに記されている。 また、本尊参拝について江戸初期一無軒道冶著の「高 野山通念集」では「高野の僧侶一國の里民物詣し奉 り、貴賤袖をつらねて、道もわかたぬ群集、……」 と高野山からの僧侶と参拝者による賑わいの様子が 記されている。 『高野春秋』には、当寺の境内地に高野山の伽藍 炎上による堂塔造営に関わった紀伊守大江景理(長 徳 4 年(998)任官)の墓所があるとの記述があり、 さらに、勝利寺墓地及びその周辺には室町時代の石 造物が数基、また、今回の調査で時代は下るが本堂 奥の竹藪からは天正期の五輪塔群が確認された。『紀 伊続風土記』(高野山之部巻之二十二)には、「後白 |
3 たことにより改変などから免れ、古道として極めて 良好な状態で保存されることとなった。 不動坂手前には弘法大師の足跡があるとされる 「四寸岩」があり、神谷集落近くまで女人堂への距 離などを示す石の道標が並ぶが、かつての桟橋が朽 ち果て通行不能となっている。不動坂の登りはじめ には「いろは坂」、尾根筋に出ると罪人の処刑場跡「万 丈転がし」、「外の不動(堂)」跡、馬廻道との辻に 今回の調査で地中から掘り起こされた石の「道標」、 稚児の瀧を見下ろす「岩不動」などがある。「外の 不動(堂)」は大正9年に移築されており、「清不動 (堂)」とも呼ばれている。その手前で舗装路と交差 して、堂の裏手から 「花折坂」 を登りきると今回の 調査で地中から掘り起こされた2基の「華瓶」、さ らに左手に供養塔、不動明王、地蔵菩薩の石像が並 ぶ。再び舗装路と合流後、弁天岳から大門へ至る尾 根筋の古道との分岐を経て不動(坂)口女人堂まで には、『紀伊国名所図会』(巻之四)で描かれている 多くの史跡が不動坂に点在する。 不動坂は平成 23 年度の古道整備により再び高野 参詣道としてよみがえり、その遺存状況は極めて良 好であることから史跡としての価値は高い。 3 黒河道 黒河道は、『紀伊国名所図会』(巻之四)に「橋本 邊よりの近道」とある「登山七路」の一つであり、 黒河口、久保口、大和口、千手院(谷)口そして粉 撞峠を越えることから粉撞峠口などとも称された。 同書には、「黒河村より来ると、野平村より来ると、 粉撞峠にて二路合して、千手院谷に入る。」とある。 「黒河村まで五十餘町(約 5.5km)」とするのが黒河 口、「野平村まで百二十餘町(約 13km)」とするの が橋本・大和方面への道、大和口である。 『太平記』に「光厳院禅定法皇行脚事」として法 皇の高野山御参詣と御下向について記述がある。「行 末心細き針道を経て御登山有りければ、山也山、水 又水、登臨何日盡さんと、身力疲れて……」との 針道(高野山町石道)登山の様子に対して、「御下 向は大和路に懸からせ給ひしかば、道の便も能と て……」とあるのが高野山から吉野(大和)へ向か う下山の様子についての記述である。 |
4 黒河道は橋本近辺から奥院又は高野山千手院谷へ の近道であり、「千手院(谷)口」とも称されたが、 高野山文書を代表する『宝簡集』に編纂された「禁 制 條々」(応永 21 年 1414)に、「旅人引制札案文 千手院口に立つべし」との端書があり、参詣人を誘 引する事などを禁じている。 橋本から高野山への最後の難所として粉撞峠を越 え、その制札が立てられた千手院(谷)口に至る。 『紀伊続風土記』(總分方巻之十一)の記述によれば 平清盛が「金堂の曼荼羅を此院にて図せられしとそ」 とする曼荼羅院が千手院谷にあり、その院主検校重 任(金剛峯寺座主)が、粉撞峠に地蔵石仏(永正 9 年 1512)を建立していることが今回の調査で確認 された。 「千手院谷」は、念仏を唱える高野聖三大集団の ひとつ千手院聖(時宗聖)の本拠でもあった(『高 野聖』五来重著 角川新書 1965)。なお、山麓の橋 本市賢堂付近では、高野山へと向かう黒河道沿いの 尾根筋に「念仏尾」、「堂の尾」、「聖尾」、「傳道坊」 などの地名もあり、高野山で広まった念仏の影響が 山麓周辺地域にも及ぼしていたことが指摘されてい る。 橋本のまちを開基した応其上人は、千手院谷瀧城 院に寄宿していた日々があった。また、橋本の南西、 黒河道沿いに聳える国城山と寺院名で繋る千手院谷 国城院では、応其上人が月並連歌興行を始めたこと が『紀伊続風土記』(總分方巻之十一)に記述され ている。 奥院御廟橋手前に、「木食所」 と呼ばれる建物が あって、応其上人はそこを拠点として勧進活動を行 う高野聖を支配していたとも考えられている(『特 別展没後四〇〇年木食応其-秀吉から高野山を救っ た僧-』和歌山県立博物館 2008)。なお、豊臣秀吉 下山の折り応其上人が同行したと考えられる道も千 手院谷から橋本への山道であったことが『紀伊続風 土記』(巻之五十一、高野山之部巻之十一、總分方 巻之五)などに記され「此を今に太閤道といふ」と の記述がある。 高野山絵図のなかで黒河口女人堂付近から山外に 出る道を「丹生川道」としているものがある。『紀 |
5 伊続風土記』(巻之四十五)に「村領の内三尾川領 東郷村と北又郷の間に斗折蛇行して長く突入り銅ヶ 嶽の地に至るあり其所を雪生といふ」とあるように 旧丹生川村の土地が銅ヶ嶽(雪池山)まで細長く繋 がっていたとすれば、雪池山頂上付近に丹生神社の 社地があることから旧丹生川村から山頂までの道の 存在と、東郷と北又の両大字界付近を通っている黒 河道(太閤道)との繋がりが窺われる。 黒河道(太閤道)は、旧丹生川村の東で「わらん 谷(藁谷・蕨谷)」を通過するが、その名称につい て『紀伊続風土記』(巻之四十五)に「藁蓋谷の義 にて鎮座所のよしにいへるか」とあるように「わら ん谷」と丹生川丹生神社との関わりを示唆する。 丹生神社の起源を考えると伝承では成立年代を慶 雲(704 ~ 708)以前としていることから金剛峯寺 創建より古く、絵図に黒河口女人堂からの道を「丹 生川道」としているものがあるように、黒河道(太 閤道)は、丹生神社の別当寺である円通寺と高野山 との往来などに利用されるなど、旧丹生川村との繋 がりが窺われる。 江戸時代の『高野山領の図』(金剛峯寺蔵)に高 野山の領地を結ぶ道筋が描かれていることから黒河 道(太閤道)を辿ることができる。それによると高 野山から黒河・佛谷を経て久保、又は高野山から直 接久保へと続き、市平・賢堂・河南大和街道に繋がる。 『九度山町史』(九度山町史編纂委員会 昭和 40 年、 平成 16 年、平成 21 年)によれば黒河道は高野山千 手院谷から黒河・久保・美砂子・市平・青淵・明神ヶ 田和・清水を経て橋本までとしている。また、九度 山町公民館報に昭和 34 年 7 月から 35 年 9 月まで転 載された郷土史家による『玉川四十八石附仝和歌古 今集』に「橋本から明神ヶ田和を越え、市平、久 保、黒河を通り奥の院の裏に出るのを裏参道とした のは……」とあり、裏参道(黒河道)のルートが挿 し絵に描かれている。 現在、橋本の紀の川対岸にある二軒茶屋周辺は区 画整理や南海電気鉄道高野線の軌道などにより街道 は大半が原形をとどめていない。したがって鉄道の 踏切を渡り一段高い賢堂地区にある定福寺近辺が実 質の起点となる。そこから国城山東麓の明神ヶ田和 |
6 で市道が整備されているが、そのカーブをショー トカットするように、また、並行して古道が五軒畑 集落、弘法井戸のある鉢伏集落を繋ぎながら峠(明 神ヶ田和)を越える。峠を斜め左に進むと林道(市道・ 町道)となって青淵集落付近まで続き丹生川を渡る が、集落手前の未整備区間に改変されていない山道 が良好に遺存している。一方、峠から直進するとわ らん谷(藁谷・蕨谷)であり、急な坂を下り周辺集 落の水源地に至るまで舗装路が続いている。その区 間は古道がなかば消滅してしまっているが、簡易水 道の取水施設を過ぎると谷沿いの道が良好に遺存し 整備も進められている。県道宿九度山線と交差して からは、丹生川を渡るために町道の市平橋を渡り市 平集落へ向かうが、少し上流に現在通行止めとなっ ている吊り橋の上市平橋があり、その北詰に地蔵菩 薩及び弘法大師の石像が祀られて「為往来安全」の 文字が刻まれている。市平集落を過ぎると大師堂及 び観音堂のある観音寺跡並びに桂の大木が聳える春 日社から九十九折りの坂を登る。林道に合流するま でには見過ごしがちであるが地蔵石仏もあって、植 林の中に道は良好に遺存している。林道と交差して 戦場山東側の中腹をほぼ水平に行く道は、太閤坂と 呼ばれる戦場山の迂回ルートであって、倒木処理等 の整備が必要な箇所があるものの遺存状況は良好で ある。また、林道終点近くから戦場山を越える道は、 山間の休耕田や植林された水田跡の中を縫うように 登る山越えのルートとなっている。両ルートが戦場 山南側の久保小学校手前で合流し、観音菩薩と弘法 大師が彫られた石の道標にも「往来安全」の文字が 刻まれている。そのまま直進すれば地蔵石仏を祀る 粉撞峠へと向かう太閤道であって、「茶堂(茶屋)」 跡及び通称「大黒岩」並びに室町期からの五輪塔残 欠群がある「高野豆腐製造所」跡などが道沿いにあ り、粉撞峠手前の国有林内に道幅の狭小な箇所があ るものの、山道の遺存状況はほぼ良好である。 一方、小学校手前を左にとれば舗装された町道を 進み、さらに黒河林道を行く。林道の終点から「ひ うら坂」を登り雪池山の南にある黒川峠から粉撞峠 を越える山道が古来からの黒河道と推測される。町 道、林道に並行して残っている古道は、全体的に踏 |
7 み込まれた道としての形跡が薄く、なかば消滅しか かっている。また、「ひうら坂」については、道の 遺存は認められるものの荒廃の著しい箇所があって 整備方法など検討を要する。 粉撞峠には地蔵石仏を祀る小祠と石の道標が並 び、峠を下る山道は高野町指定史跡『高野山女人道』 とほぼ重なるが、転軸山には登らずに巨木が聳える 一本杉から高野町役場手前の黒河口女人堂跡に至 る。転軸山麓から黒河口女人堂跡までの区間は、車 道と住宅地の中などにあり原形をとどめず特定が困 難な部分がある。 「ひうら坂」を通らず、旧黒河村平集落跡を経て 楊柳山の東側、現在黒河峠と称されている桜峠(黒 子辻)を越え、奥院裏に至る道を「黒河道」として ハイキングルートなどでも紹介されている。しかし、 高野山絵図や『紀伊続風土記』(高野山之部巻之六) では「佛谷道」となっていることから、「ひうら坂」 が通行されなくなった後、「黒河道」と称されるこ ととなり現在に至っている可能性が高い。いずれに しても、奥院に至る最短ルートでもあることから江 戸期にはよく利用されていたことが道沿いにあり、 又は別の場所に移動している弘法大師像などの石仏 の道標などから推測できる。石垣の残る平集落跡の 沢沿いと植林された山中に道は概ね良好に遺存して いる。 野平集落近くに「右 おくのゐん」と刻まれた地 蔵石仏の道標があることから納骨など奥院への道で もあり、裏参道として貴顕の通行を物語る伝承があ る黒河道(太閤道)は、奥院及び千手院谷に通じる 高野参詣道であり、史跡としての価値は高い。 4 大峰道 大峰道は『紀伊国名所図会』(巻之四)にある「登 山七路」の一つであり、大峰口、東口、野川口など とも称された。大峰・洞川から奈良県境の天狗木峠 を越えて桜峠から高野山・奥院に至る道であって、 「俗此道筋を七度半道といふ。一度此道より登詣す れば、功徳七度半にあたるとぞ。」と大峰山・高野 山という二つの霊場を結ぶ道として、その霊験功徳 について記している。 巡礼道として江戸時代の道中記が残され、道沿い |
8 には役行者を浮彫した石の道標も点在している。修 験の道、空海抖擻の道と同様、高野山と山上ヶ岳を 結ぶ道であって成立時期は中世に遡るとされる。 『紀伊続風土記』(高野山之部巻之六)に「大峯道 橋の東にて右路は奠供木峠に至り左路は摩尼荘へ 至る」とあるが、大峰口からの右路は桜峠近くまで 車道や住宅地内にあってなかば消滅して原形をとど めていない。左路については国道 371 号の舗装路か ら分岐して隧道上で摩尼峠からの道と尾根筋で繋が る。 大峰道は、大峰・洞川から山上川、天ノ川、中原 川などの川筋の集落を繋いだ街道ルートが奈良県境 で天狗木峠を越える道となり、また、尾根筋を通る とされる修験道ルートが天狗木峠近くで車道と合流 して、その両ルートが峠で交わっている。天狗木峠 には、役の行者像の石の道標があり、立里荒神社と 高野山へ舗装路が分岐する。高野山への車道途中に 立里荒神社への旧「こうしん道」の分岐があり、宿 があったという桜峠では、車道と摩尼峠に向かう尾 根筋の道が分岐する。山道は国道 371 号線の隧道上 を過ぎ、地蔵石仏前に横たわる「こうしん道」の石 の道標近くで「高野三山」への道に繋がる。植林の 中、尾根筋の山道は若干の整備が必要であるが良好 に遺存し史跡としての価値は高い。 5 西国街道 『紀伊国名所図会』(巻之四)に「府下より登るも のは、麻生津峠より志賀郷を経て、矢立にて此道に 合し、大門に入る。……」とあるように、西国街道 は、「登山七路」の一つ大門口、西口、矢立口など と称された表参道「高野山町石道」とは、梨木峠を 越え花坂を経由して矢立で合流する。麻生津口、若 山口又は麻生津街道、わかやま街道などとも称され た道である。 山麓の麻生津には茶屋・旅舎があって、絵図に麻 生津峠での茶店の賑わいが描かれている。また、『紀 伊続風土記』(巻之四十九)には、花坂について「麻 生津よりの高野街道にて旅舎多く駅舎の体山家の趣 なし」とその街道沿いの賑わいの様子が記されてい る。 道沿いの石の道標や地蔵石仏などは、江戸時代の |
9 ものがほとんどであるが、麻生津峠近くのかつらぎ 町御所に南北朝時代のものと推定される五輪塔など がある。また、花坂の集落に入る手前の道沿いには、 通常の 2 倍以上の大きさがある一石五輪塔、川を隔 てた山腹に室町時代のものと推定される五輪塔など があり、仁和寺門跡の御陵、隠棲庵跡などがあった と伝えられている。 元禄期に編纂された『高野春秋』などに登場する 高野山の再興や中興を成し遂げた高僧の記録や逸話 に麻生津峠などが舞台となっているものがある。こ のことから、西国三十三所第三番札所の粉河寺と高 野山を結ぶ西国街道と称された道の成立時期は古 く、平安時代に遡るとされる。 山麓の麻生津から観音堂や六地蔵のうち「三の地 蔵」がある麻生津峠を越える道は舗装路が続くが、 清川から「四の地蔵」のある日高峠を経て石の道標 が並ぶ市峠までの間、そして距離は短いが、梨木峠 「五の地蔵」のある前後については、植林の中、山 道が良好に遺存しその価値は高い。 6 三谷坂 三谷坂は、かつらぎ町三谷の丹生酒殿神社から笠 松峠(古絵図及び地名には三谷峠とある。)を経て かつらぎ町天野の丹生都比売神社に至る急峻な峠越 えの坂道である。かつては紀の川にあった船着き場 「三谷津」あるいは河南大和街道からの分岐を起点 とした「天野道・三谷道」の一部でもある。高野山 へは笠松峠から直接六本杉峠(天野辻)又は丹生都 比売神社を経由して高野山町石道に合流し高野山大 門に至る。 道沿いには、「笠石」、「鉾立岩」、「涙岩」、「頬切 地蔵」、「的岩」など多くの史跡が点在し鎌倉期まで 遡るとされるものがある。天野丹生都比売神社の神 主による紀の川での垢離や三谷での祭祀など天野と の往来が金剛峯寺創建より古くから続いているとす れば、三谷坂は平安前期をさらに遡ることも考えら れる。また、高野参詣について、京都仁和寺門跡が 辿った記録などから三谷坂が利用されている。坂道 は、麓から丘陵の中腹にかけて果樹栽培の作業道と なっているが、上部では、杉の植林地内を地道が続 いている。 |
10 三谷坂は大規模な改変はされておらず、古代から のルートと形状を保持しているものと考えられ、平 成 23 年 3 月には丹生酒殿神社西側から県道志賀三 谷線に交差する笠松峠付近までの約 2.5㎞の部分に ついて県史跡指定を受けている。笠松峠から上天野、 又は六本杉峠まで、そして上天野から六本杉峠まで の道についても植林の中、良好に遺存しその価値は 高い。 第3節 関連文化財 1 勝利寺 勝利寺は、表参道高野山町石道の起点がある山麓 の慈尊院からおよそ 300 mの町石道沿いに一段高く 位置し、萬年山世尊院とも称された。本尊とする平 安後期作十一面観音菩薩(町指定)は、『十一面観 自在菩薩心密言念誦儀軌経』によれば、離諸疾病を はじめ 10 種類の現世での利益(十種勝利)と 4 種 類の来世での果報(四種功徳)をもたらすとされ、 また「勝利」とは仏教語で「勝れた利益(りやく)」 を意味している。 当寺については、弘法大師以前の創建として、高 野山開創時における天野を経て高野山への登山時の 寄宿、慈尊院伽藍建立時の役割などについて伝承が 残っている。高野山開創後も有力者の難病治癒伝説、 仁王門再建時の奥院神木「明遍杉」の使用、大師及 び母公の所持物並びに貴顕による寄進の仏像など多 くの宝物類があったことが『紀伊続風土記』(巻之 五十、高野山之部巻之二十二)などに記されている。 また、本尊参拝について江戸初期一無軒道冶著の「高 野山通念集」では「高野の僧侶一國の里民物詣し奉 り、貴賤袖をつらねて、道もわかたぬ群集、……」 と高野山からの僧侶と参拝者による賑わいの様子が 記されている。 『高野春秋』には、当寺の境内地に高野山の伽藍 炎上による堂塔造営に関わった紀伊守大江景理(長 徳 4 年(998)任官)の墓所があるとの記述があり、 さらに、勝利寺墓地及びその周辺には室町時代の石 造物が数基、また、今回の調査で時代は下るが本堂 奥の竹藪からは天正期の五輪塔群が確認された。『紀 伊続風土記』(高野山之部巻之二十二)には、「後白 |