東吉野村、天誅組史跡を訪ねて
2017/07/06
単独ハイキング

総時間4時間25分
10:50〜15:15
天誅組のことが書かれたページ
予定していた7日の七夕登山が中止に成り、この天気を逃してなるかと前日の六日に急遽天誅組の足跡を追ってみた。
天誅組に特別詳しいわけでは無いが、幕末の政変のさきがけとなった、天誅組約100名の思いは、同じ幕末の新撰組に比べればあまりにも知られていない。土佐の出の吉村寅太郎は、坂本竜馬と比べればその知名度は薄い。

私そのものも、天誅組については知識も薄いが、十津川や旧大塔村、天川村のなどの古道を歩けばその足跡が見えてくる
今回は、森下幾馬、森下儀之助兄弟の右左に分かれたと書かれた一枚の看板から今日のコースを歩いた。

看板に出る。紀州街道赤谷口、小名峠、首つり峠の確定と、その状況を感じたかった

兎に角、山行中止のラインに気が付いたののが7時半、天気がいいしと、京奈和道を走れば二時間で東吉野に出るが、紀州街道の三茶屋交差から小名に入り、色濃く残るであろう紀州街道自然道に取り付いた。
車を路駐して、山道に入ろうと準備していると、役所の車が来た
この奥が紀州街道でしょうかと尋ねるが、土木の方達だったが、それは知らないという
紀州街道は、伊勢道も兼ねた紀州公参勤交代の道だ。和歌山から高見大峠を越え伊勢や江戸に続く
 
地図道から小名峠に向かう
道は直ぐに未舗装に成るが、状態はよい。心配なヒルは居ないかと目を見張るが、それは無いようだ
奥に進めば、田の跡に植林された風景の道、当時として直ぐに見つかってしまう街道だっただろうに森下儀之助、森下幾馬、は本隊の山中忠光卿を捜し求めたのだろう。
道は梅雨のさなか、実線が破線に変わる頃、往時のままに残っているが、表土が流れ石がゴロゴロだ
 
少し??と感じる曲がりも有るが、道成りに登ろう
小名峠に出る。
ここには島村省吾捕縛の地の道標、先に書いておくが、この種の道標は前東吉野村教育長、坂本基義氏の手によるものだ
坂本氏は、東吉野の方だが、高知大学を卒業した、土佐出身の吉村寅太郎、島村省吾の天誅組について地元東吉野は余りにもその認識が薄い事を思い、さきがけの道やその歴史を研究したそうな

 
小名峠には、民家跡が有る。
島村省吾は19歳の天誅組最年少だ。
この峠に今は民家跡が感じられるだけだが、島村省吾は峠の民家清三郎に頼み納屋で一泊したが、密告され捕縛された。
数件の民家が有ったのだろう
八代将軍吉宗も通ったと言うが、この峠越えは馬にでも乗って通ったのだろうな
如何に道の整備が有ったとは言え、籠ではつらい物が有るだろうと感じた。さて???

この峠から下ってゆく、道は整備が有る。
谷側は田の跡が有り、水は豊富だ。
下ってゆけば、道は分岐する。ここが赤谷口だろう?
赤谷口に下る手前に朽ちた道標が出た。
 
方向は下り側に向いていた。
井枝の谷と書かれた朽ちた道標が出た
何処で何を意味するかは今のところ分からない
赤谷口の道標は倒れ、どの方向を示していたかわからなかったが、森下幾馬は右に下ったとあることから、赤谷方向に立てかけた。
 

森下幾馬戦死の地まで10分と有る所から、その地点の印があるだろうと思っていたがそれは無い
下山後、前教育長を尋ねた所、営林署の看板のあるところ、との話からその位置を記憶して地図に現した
後は首つり峠の特定だがまるで分からない。
地図に示した地点は、弟幾馬が首つり峠を越して鷲家赤谷を下る途中、戦死したと有る所から地図に示した位置だろう
道は広く紀州街道そのものが整備が有ったのだろう
水も豊富で、谷は水田が有った事は用意に分かる

鷲家が見張らせる手前は公園だろうが、その中で鹿が囲いに入ったのはよいが、出れず警戒声を出しながら数頭が右往左往、モウ人の手では鹿の害には手が付けられないのだろう
地蔵か?出て村が見える。その下に森下幾馬の墓が出た。
 

墓地には、紀州街道であることと、森下幾馬が約1km上で藤堂勢、西荘源左衛門の手によって戦死したと有る
町中に出れば、そこは紀州街道と東熊野街道の分岐点三叉路、村指定の文化財灯篭がある
その台座道標には、江戸を示す方向が書かれ、江戸を示す道標としては最西端に有る。と書かれている
 
その前の民家の庭先に
右、高見、伊勢 左 古市場?、宇陀、榛原の道標がある

この鷲家の地も激戦で紀州藩軍役方頭取 金沢弥右衛門、陣屋に天誅組総裁、藤本鉄石と福浦元吉が討ち入った
この界隈は、交通の要所で当時は紀州徳川領、陣屋は常駐していた物だろう
藤堂藩や紀州藩の陣屋が有るところに、たった二人で討ち入った
勇気もすごいが、総裁の意地と仲間を1人でも逃がそうとした行動かも

 
県道を役場に向かって500mも下れば、同じ総裁の吉村寅太郎の原えい処に向かう
大きな石碑とその歴史の数々の碑がある

辞世の句
吉野山風みだるるもみぢ葉は、我が打つ太刀のけ血煙とみよ

墓は明治谷にあるが、この地で戦死した
地図に載る戦死をしたと言う薪小屋に向かってみたが、モウこの時期は行けたものではなかった
途中に小鹿の屍骸、倒木 雑草と私を阻んだ
 

 
県道を下り一の谷に向かう。
案内には市の谷と有る。今は舗装された管理道だが、往時はどうだったのだろうか
 
登れば杉葉で道が埋もれその下のコンクリートは見えない
油断すれば足を滑らしそうな急坂を、あえぎながら登った
森下兄弟も、お腹をすかし体力も無くなり、必死で登ってフト気が付けば兄弟が右左に分かれてしまったのだろう
水が豊富な谷は水田が有った事だろう。
不審者が通れば直ぐに目立つ街道を必死で登る姿が見える
 

赤井谷口から更に登り、島村省吾が捕縛された小名峠を越さず、尾根を伝ったのかもしれない兄 儀之助の足跡を探ってみようと、小名峠から尾根に一歩足を踏み込ませたが、暑さに負け、やはり紀州街道を下ろうと小名集落に下った。
 
ハイキングはここで終わり、ハッキリしない首つり峠を聞こうと役場に向かった

ハイキング中の話だが
鷲家で出会わせた奥様に首つり峠を尋ねたが分からないとの事、少し高齢の奥様ならと紹介して下さったが、この方も分からずで
鷲家の電柱に松尾芭蕉の案内があったので、浄閑寺に向かった

歌碑があったが、この地に芭蕉も尋ねたのか??
歌碑には
酒呑みに語らんかかる滝の花 とあった
今は廃寺の竜門寺の竜門の滝で読んだ句だそうな

浄閑寺から帰り、三叉路で写真を写していると、前出の若い奥様が、村が天誅組を有名にしようと村民が頑張っているが、マダマダ勉強不足です。と、娘が手作りのヨモギ饅頭ですがお食べ下さいと差し入れてくださった
無精ヒゲのさえない私に、警戒心も無くにこやかな笑顔で下さった
大好きなヨモギ饅頭、ありがたく昼食を取った吉村寅太郎原えいの地で頂いた
村人は素朴で優しく、この後数人と出合い尋ねるが、皆様優しく親切だった

 
路駐点から佐倉峠経由で村役場に向かった
前出の奥様が、役場に行けば分かるかもとのお話し
役場には受付が無いから、一番近いカウンターで尋ねた
誰もわからず、本を出してくださり、教育長が来て下さりと調べたが分からなかった
写真を見せてそのことが書かれている事を証明したが、どうも分からない
前教育長ならと、大又、三尾地区の前教育長を尋ねた

前教育長も分からず、文面から地図に現した所だろうとの決定だが、
後は東吉野村天誅組顕彰会に尋ねることになっている
場所が違えば、又訂正します
前教育長宅で東吉野について長々と話し込んだ
やはり大又付近も、伊勢や川上村と山越えの道が有りにぎやかだったそうな
私の考え、道を歩けば道が残り、人が歩けば道が出来る。を話し同感を頂いた
マタマタ、この地のバリエーションを話、その目的の登山口、日裏方面に向かった。
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書き忘れたことがあります
東吉野村の小川地区も激戦だったことです
今は村の中心で古き村の雰囲気が残る所ですが、天誅組の匂いが漂います
ここの戦闘だけでも映画の一齣ができそうです



武士道とは明日死ぬことと見つけたり、葉隠れに見る武士道を最後まで思い、信じ明日の日本の夜明けを信じたと思うショウタンです」


映画の一齣のようですが、明日の日本を憂う若者の最後が・・・



 
東吉野村小川付近