紀伊大島樫野崎トルコ軍艦遭難の碑




入り口にある碑



明治23年(1890年)トルコ国皇帝特派使節として来日したオスマンパシャ海軍少将以下650余名の将兵を乗せた軍艦エルトゥールル号が我が国との
修交の使命を果たして帰国の途中9月16日夜、熊野灘で暴風雨に合い、串本町樫野崎灯台下の岩礁で難破、いたましくも少将以下580余名の将兵が
殉職されました。エルトゥールル号が遭難した明治23年当時、地元樫野の島民は献身的な救助活動を繰り広げ、引き上げられた遺体は、救出され一命
を取り留めたハイダール士官立ち会いのもとに、遭難現場である船甲羅岩礁を真下に見下ろす樫野の丘に埋葬されたと伝えられます。

翌明治24年3月、和歌山県知事をはじめ、有志の義金により墓碑と追悼碑が建立され、併せて追悼祭が行われた。
のちに昭和天皇の行幸(昭和4年)を聞いたトルコ共和国初代大統領のケマル、アタチュルクが新しい慰霊碑を建立することを決定し、和歌山県が委託を受け、
写真のような立派な弔魂碑に改修されましたが、墳域設定に際して、大島島民は樫野崎灯台東南300メートルのこの広場(面積746平方メートル)を提供しました
そして、天皇行幸8周年記念日に当たる昭和12年6月3日、除幕の日を迎えました。この碑の正面の題字は、「土国軍艦遭難の碑」は明治23年最初の一基を
そのままはめ込んだ物です。明治24年以来5年毎に盛大な慰霊祭が執り行われます。

遭難時の様子


明治23年9月16日、帰途についた特派員大使海軍将校オスマン、パシャ一行の行く手を阻んだ熊野灘の暴風雨はエルトゥールル号を樫野崎灯台沖、船甲羅岩礁
へと押し流して行きました。昔から船乗りにとって海魔と恐れられていたこの岩礁に乗り上げた艦は中央より両断、オスマン、パシャ以下580余名の尊い命が
奪われました。一命を取り留めた士官、ハイダール以下69名は荒れ狂う怒濤の中、大波に翻弄されながらも、必死で島にはい上がり、樫野の灯台に助けを求めました

嵐の中、しかも深夜、ましてや通信機関も救助機関も無い離島での大事件、それでも村の人々は手持ちの着物や布団を持ち寄り応急措置と看護に当たり、又各戸に蓄えていた芋や飼っていた鶏などを食料を提供しました。幸いにも洋食料理の心得があった村民の一人、樫田文衛門がコック役を務めましたが、小さな村に一度に69名の珍客を迎え、たちまち食料は底をついてしまいました。にもかかわらず村民は、トルコ人が本国で賓客に示すに劣らぬ歓待の意を表し、食料の一切を提供したと言います。
その後、生存者の救済の一方で、遺体のの捜索もなされました。発見された遺体は、ハイダール士官立ち会いのもと、船甲羅を臨む樫野崎の丘に埋葬されましたが、オスマン、パシャはじめ、300名以上の将卒の遺体が発見されることなく、遠く故郷を離れた異国の地、樫野の海底深く永久に眠り続けている

以上トルコ記念館パンフレットより抜粋、詳しくは和歌山県串本町樫野トルコ記念館TELー0735-65-0628でお尋ね下さい

開館時間AM9.00〜PM5.00
入場料
大人  250円 小人  120円 

いきなりパンフの抜粋など書いたがショウタンは紀伊大島は初めて、昔は串本港と大島港を巡航船が走り、離島の感が強かったが現在は、串本大橋がかかり陸路、車で行く事が出来る。

串本港から見た紀伊大島


十二支の会に入会したショウタンは例会に出席がてら紀伊大島の山、金山116.9mと大森山171.3mに登ろうと行くが、大森山は自衛隊が立ち入りを許可しなかった。
そこで時間が出来、樫野崎の灯台とトルコ軍艦エルトゥールル号遭難の記念館を廻った。

紀伊大島の景色を少し写真で乗せておきます


エルトゥールル号が座礁した岩
船甲羅岩礁
樫野崎追悼碑と樫野崎灯台
樫野崎灯台、この灯台は慶応二年(1866)に江戸幕府が
イギリス、フランス、オランダ、アメリカと結んだ江戸条約で
建築が決められた。観音崎、剣崎、野島崎、神子元島、
樫野崎、潮岬、、伊王島、佐多岬、の内の一つ
設計はリチャード、ヘンリー、ブラントン英国人で我が国が
最初に手がけた石造り灯台、明治3年7月8日に点灯(西暦)
プレート(これは陰暦か?)
灯台から見た潮岬と灯台下水仙公園
灯台入り口の水仙広場、


大島からは太平洋や、紀伊半島の景色はすばらし物があります。
釣りのメッカとして超有名だが、観光にもすばらしい

金山から見た橋杭岩



本州最南端の町串本と、大島港、串本港を見る
金山から


又最南端潮岬からの太平洋もすばらしい

 

串本町の天然記念物橋杭岩はいつも多くの観光客を集めている



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