紀泉高原 小川地蔵分岐から墓の谷行者堂、行雲山峰 2023/07/07 単独 ヤマレコ埋め込み |
2023年6月2日の台風二号の大雨で線状降水帯が発生した和歌山県北部、海南市や紀美野町は死者が出る水害が出た 和歌山市内は幸いにも、水害は有ったが人的な被害が無かった アレから一か月、ころは良しと和歌山市の最奥地に有る行者堂の参詣道を踏査してみた コースは 日本遺産の葛城28宿行所や経塚周りの一つで紀泉高原の登山道の一つ、和歌山市畑地区に有る小川地蔵尊から墓の谷林道を登り、 墓の谷行者堂、青少年の森、雲山峰と踏査してみた 小川地蔵尊 六十谷道が整備されていなかった頃、大福山登山はコノ小川地蔵尊から割谷林道に入り、八王子社跡、奥辺峠と登るのが主だった ここまでバイクで行ったが、通常は六十谷駅か大関橋から歩くのが主だ もちろん、車は乗り入れは出来ない 所用を済ませ小川地蔵に着いたのが9時とスタートは遅い 細い道で生活道の為登山者の車乗り入れはしないほうが良いだろうし。駐車場は無い バイクは割谷林道際に停めた 正面に見えるバベ尾の頭は天気は良いが、予報では3時頃に雨が降り出しそうだ 時間的に制約がある 牛神さん前を通れば、高齢の女性たちが休息して写真を写す私に、墓の谷には行けない道が荒れていると教えてくれる 一度様子を見てみたいと自己責任で行くと了解をもらって歩を進める |
牛神さんから井関橋までは市林道井関橋線で、井関橋から市林道墓の谷線に成る 井関橋の上に大きなラミネートで通行止めと書かれゲートが有った 丁度、墓の谷方面から参詣者らしい女性が下ってくる 話せば、荒れてはいるが土砂崩落は無く道が荒れ、一部は掘れ込んでいると言う 行けそうだと踏み込む 墓の谷林道の斜面には野草が多い ジャノヒゲやメハジキが有る 羊歯でもなく、蔓でもない見た事が無い植物が一本だけあった 何だろう。グーグルさんでは分からない |
墓の谷林道は猪被害も多い 道の端はいつも掘り返されている ご近所の大久保氏が毎日整備してくださっていたが、高齢で長らく行政任せの状態で荒れ方がひどい それでも、健康歩きの方の少しの手入れが道を保っているようだ 登れば古くから紀泉高原で出会う女性の方が下ってきた 毎日歩かれる墓の谷線は詳しい 一部道は流されているがお堂迄は行けると教えてくれた 登れば写真のように水で道が流された所や、表土が流されてゴロ石道に成っている パンプスで参詣する方は墓の谷線は歩けないかも 幸い道は荒れているがお堂には被害がなさそうだ |
墓の谷行者堂裏手から紀泉高原登山道に入る 一つ目の鉄橋は無事で、二つ目のボランティア活動の橋は流される寸前だった 橋下の流木が水をせき止め橋ごと流される恐れが有る 手で抜き取れる流木は抜き取ったが再整備が必要だろう 梅雨明けにもう一度何とかしてみたい 行政道標が出る所までは、猪が暴れているが通るに問題はない 娘地蔵の表記で登るのは古道で紀伊黒岩方面から行者堂への旧参詣道で、地蔵峠から南は廃道だ 紀泉高原に行くには、この峠越えが主流になっているようだ 私は登山道、六角堂に向かう道を登る 昭和の時代の紀泉高原ルートは、墓の谷線からお堂、青少年の森が主流で道も快適でした 所が、大雨が多くなりだして、千手川の源流部の沢横に有る登山道は表土が流され始めた そこに猪が道を荒らす 今は廃道寸前のゴロゴロ道だ 登山的に見れば、登山道だがハイキング気分では道ではない 前回の踏査の時は無かった測量杭が見られた 行政が手を入れてくれるのだろうか 期待が高まるが和歌山市は貧乏だし、営林署の仕事ならまあ期待薄だろうなんて考えてしまう 登山で登るならこの道を利用すれば良いと思う。 人が通れば道に成る 踏み跡が出来道が固まり道に成るのだが、登山者は少ないコースだ ユックリと歩きで尾根の紀伊駅分岐に登り切る |
後は登山道だ 六角堂はススキが生えこんでいたが、ボランティアさんが刈り取ってくれていた 青少年の森をスルーして井関峠側に入り正面から地蔵山のピークに向かう この記事を書くについて気が付いたが、466m測量点を地蔵山としていたヤマレコだがそれが消えた。 466m地点は図根点の点石が有る 図根点には等級でもあるのだろうか主図根の文字が読める 昭和の40年ごろはこの付近から見晴らしが有ってその名残に灰皿用の土管が残る タバコが登山の仲間で有った頃には山火事防止に活躍した 尾根を通して山頂に行くが踏み跡はごく薄かった 山頂には倒木が有る 撤去も必要かな |
東側直ぐの縦走路に出て雲山峰に向かう 風が無い、蒸し暑いが夏向きの体に早く成れなければと思う 雲山峰はヒッソリとしている 山頂はやや生えこんできた 少し風を感じる椅子でお昼を食べた 三等三角点、雲山峰も笹に隠れていた 行動食並みに食べ、行雲山峰に向かう この尾根は、地蔵林道が六角堂迄出来る以前は、落合と雲山峰を繋ぐ道が有った 明治の地形図にはその道が載っている 今も古い行者は時には通り、そのことを知る山好きたちは通っている 明治の地形図と現在地図を載せておきます 地図今昔から 左手は明治43年作図 雲山峰は生えこんで踏み跡は薄い 少し入れば道が出る |
行雲山峰は見晴らしが無くなっているが高野営林署が整備したころは見晴らしが有りました そのころの遺物はゴミかごと灰皿が残っている |
引き返し 雲山峰から地蔵峠に下る 地蔵峠は鉄塔が有り、娘地蔵は廃道の黒岩側から持ち上げられたものだ 明治の地図には載るが、紀伊方面から墓の谷行者堂の参詣道が尾根を越えていた その証はたった一つ残る町石が有る 鉄塔管理道に成った参道は急傾斜だが整備が有る 行者堂に下れば、毎日参詣のご夫婦がお堂前を清掃してくださっていた 新しく出来た日本遺産看板と六十谷側に下る起点町石に並んで歴史的に意味が有りそうな町石が残っていた 定宿 紀伊国屋甚八と掘られた石が有った 又埋もれないように保護する必要が有るだろうな この紀伊国屋甚八はググれば出ました 天川の宿泊所らしい 天川村の洞川とは深いつながりが有ったのだろうな 参詣道を下りバイクの地点まで帰路を急いだ |
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