大福山のササユリ
2024/06/07



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紀泉高原西部の山々からササユリが消えつつあります
原因は色々と有るでしょうが、私が思うに増えすぎた猪が食べ、ササユリの数を減らしていることが第一原因では無いでしょうか

今日は大福山を中心にササユリの調査に出かけた。

大関橋駐車場からスタートですが、今日は駐車場は満車でした


少し以前までは民家沿いの市道にもササユリは見かけたものですが、18丁の井関橋までは先ず見かけません
野の花を写しながらユックリと井関峠に向かう



稀少種でない花は振り向かれないようですが、見ればどの花も綺麗です
ノビルなんて食用にも良いし、花は可愛い
 
18丁からの林道は、鹿路坂と言われていたがもうその名前は消えた
整備も無くなり荒れ放題だが、ボチボチと登山者が通り、道は生きている

途中の大福の名水は人気で、愛用者たちが水場を守っている
  

小川地蔵大福山分岐 民家の横にある最後に残る丁石 牛神社事故死した博労と子牛を弔う為に作った祠(タブン明治かな)

 
18丁と大福の名水

18丁と井関橋、
井関峠と墓の谷行者堂経由、青少年の森分岐。

井関峠までは鹿路坂と呼ばれていたことを知る方は少ない
林道ではなかった頃の話だ

井関の地蔵さんは休憩場所だったが、今は井関峠に東屋が出来ている

  
鹿路坂の途中には山抜け地点が有る
もう行政は修復してくれないかもですが、ボランティアさんは根気強く修復に頑張っている
みなが通れば道は残るだろう

東屋に出て、先客の方と長話だ
少し腰痛が出てユックリとした
古くは井関峠を中心に、青少年の森までを東尾根道、大福山までを西尾根道と言っていた
殆どはボランティアさんの整備だが、一度行政が整備した。道は良い
只、井関峠から大福山まで見られたササユリとショウジョウバカマは一本も無くなった
花を楽しむ山ではなくなった

  

籤法ヶ岳(クジホウケダケ)は 懺法ヶ岳と名を変えた
村人は、現センポウヶ岳をクジホウケダケ、次のピークを同じ字でセンポウヶ岳と呼び分けていた
センポウヶ岳は稚児の松の名も残していた
明治の地形図には、 籤法ヶ岳の名は残っている

行者は口伝で名を伝えた
明治以降に字をあてはめたものだろうが、村人はそれを長く言い伝えていた
せめて小さなページの片隅に、村人の呼び名を残したい
 
ササユリが無くなりつつある紀泉高原西部の山、ササユリが咲いていたころに残したボランティアさんの看板がむなしい

大福山も村人たちはダイフクサンと読んでいたが、オオフクヤマとルビを打つページも有る
山名は地方自治体が権利を持つ
ダイフクサンは測量点は大阪府岬町に有るようだ
地形図も測量杭と地形図が違う事も有る
大福山南にその場所を知る私だ。

昔通りダイフクサンでいいのだろう
宗教的にはそれは分からない

山頂は静かだ

 

誰も来ない山頂でユックリと手作りの鯖寿司と巻き寿司をほうばる

下山途中にも何本か見かけたが、猪が荒らし数は少なくなっているようだ

 

大福山地蔵の見晴と 奥辺峠

奥辺峠の周りには何本か残っていたが、去年すべてなくなった
小さな物も有るかもしれないと見てみたが見つからない
私の花先生が、種から育て10年の月日をかけて開花まで守ったものだが、一夜で消えた
もう実生は無いのだろうか

その先では、六十谷道から見返り山に登る古道脇に幾つかあったが、何時しか一本二本と消えて行き、今年はかろうじて2本が残っていた


もう登山口までササユリを見かけなかった
猪の食害なら自然がそうさすのだろうが、人災ではないことを祈りたい

下山は、観音山尾根から大関橋Pに下る
観音山で私の連れ合いが子供のころマッタケを取りに登って遊んだ山とか
今はその様な気配すらない
宅地開発から今はエコの名でソーラー発電が坦坦と狙いを定めている
時代がそうさすのだろうが、何やらさみしい

  

観音尾根の見晴らし箇所も何やら名前が変わっていた
古くから見晴らし台などと呼び親しんでいたが、山女何々と札がかかる

このコースもボランティアさんが整備する
古くは参道で、直川観音から大福山に行く道が有ったが、直川観音からは団地開発で殆どの道が消えた
故人だがこのコースを知る方が新しくマークを打って今の道が残った

東の上人、西の観音と二つのお寺の名が山名として呼ばれたそうな

一つ一つの歴史から、紀泉高原の道を守り開発の手から自然を守って、後の世に残していってこそ日本遺産だろう

ササユリのように消えゆく自然でないように祈りたい

  

唯一50年前のハイキング道であった看板が観音山に残っている

 
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