紀泉高原周回 2024/11/10 単独 |
民家に植えられているコンギクと自然界で育つコンギクに変化が有るか確かめに登りました 紀泉高原から挿し芽用の菊を採取して育てたという コンギクとは、江戸時代に観賞用として交雑種を作り上げた菊が、自然界で生き残ったものだそうです ![]() 菊は交雑が起こりやすいそうで、鑑賞の菊はすごい数に有るようです 私は、兵庫県の県民の花、県花のノジギクを和歌山市内に無いかと探しています 先ずは、広く和歌山県内と広く目標を持ちうろうろと探しますが、中々見つかりません 兵庫県にはあちこちの公園に保護されているようです ![]() 多くの花は覚えられる年ではなく、交雑が多く野生の菊のいくつかがわかる程度は勉強をしてみたい気持ちから、今回もチョコっと自然界のコンギクを訪ねた |
最短でとバイクで、大関橋駐車場 から奥に入り小川地蔵大福山分岐にバイクを止め、井関峠を目指す 大関橋駐車場から、井関峠、又は墓の谷林道から墓の谷行者堂迄の道両サイドは野草は多い 特別珍しい花は無いが、花は多く咲く ![]() ![]() ![]() 菊はヨメナが多いようだが、ノコンギクも墓の谷林道の奥に入れば時々見つかる 井関橋から井関林道に入る ![]() 途中に大福の名水が湧き出る この湧水は私の聞くところによれば100年は枯れたことがないと言う ![]() ![]() ![]() 井関林道は古くは、鹿路坂と呼ばれ古くから大阪との道がつながっていたようだ 少し以前までハンターさん達が整備してくださっていたが、今はそれが無い 井関林道は大福の名水少し上で林道終点の道標が出る 傷んだ道も人が通れば必ず道は良くなるはずだが、登山者は少ない 途中でやまぬけが起きて、利用者たちがロープや道補修で高巻きかトラバースかの選択で通行できるが険路です その先で雑木が倒れていたが、ほんの少しだが手作業で小枝のみ払いのけた ゴロ石に注意しながら登る |
クネクネと登れば、井関地蔵が出る ここからの見晴らしは良かったが、笹がそれを隠すようになった この付近は何処からか水がシミ出し夏場も水気が有る道だ イノシシは道を荒らす ![]() 井関峠の東屋でトレラン者と話コースをお教えした リュックを置きコン菊を探して写真に収める。 花そのものは雑草や笹の勢いに負けずヒョロヒョロに伸びるが、花は綺麗に咲かせていた 色や花の大きさは変わらないが 株の分岐は流石に野生は少ない ![]() ![]() 付近に他の菊は無いことから、井関地蔵様にお供えしたコンギクが偶然に根付いたか、参詣者がこの付に植えたものか想像は楽しい |
引き返すのも良いが、道点検も兼ねて大福山から滝谷尾を下ることにした 疲れもあるから、くじ法ヶ岳もせん法ヶ岳も山頂を超えずに巻き道で登った くじ法ヶ岳下で道は細くなり傷んでいる 急いで歩けば見事に滑った ![]() ![]() ![]() 大福山地蔵前の休憩所で行動食並みの食事をとって休憩した 急いで冷や飯を詰めた弁当に箸を忘れていた 😢 ![]() ![]() 六十谷道を下る 大道寺から大福山までの道は六十谷道と呼ばれたそうです 信長の(秀吉)の紀州攻め迄、大福山の下に有った千寿寺と山頂は大道寺の奥の院だったという 大福山の山頂の石の祠の屋根は千寿寺跡から中屋哲司氏が引き上げたもので、山頂の山号石は、大福山地蔵の横に有りました そこが寺への入り口だったのでしょう これは、当時大福山山頂を切り開き今の形にした老人達が引き上げたものです 早く下らなければまた日暮れになりそうだ ![]() ![]() ![]() |
下る途中で数名の高齢者だろう団体が登ってきた 多分、札立山経由で来たものだろう 俎石山越えで帰ると言う 日暮れ時間が少し心配だった 途中の休憩所は痛みは無い 道横にセンブリが咲く 滝谷尾は通行者は少ない 入り口に道標は有るが踏み跡は目立たない ![]() ![]() 久々に下る 尾根分岐のマークが見えにくかったが森林テープが補助され見やすくなっていた 久々に下る 途中まで森林テープが目についたが、羊歯が出だすころになるとテープは今までの小さなものになった ![]() ![]() シダ中は道は分かりにくいかもしれないが、道は残る やや急こう配の中下る 尾根先はウバメガシが生え補助ロープなどあります 登りなら登山口道標が見える 今考えると、上部のテープ増設は登りの方がつけられたのかなと思いだした シダも刈り取りたいが、体力が衰える今悩み所だ ![]() ![]() また頑張ってみようなんて思うがさて バイクが見えた 簡単に周回したが、山は楽しいものだ |
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