猿坂峠から甲山、美迫峠越えで葛城経塚二番と堡塁越え
2025/03/20
単独


甲山付近のルートハンティングを行っている
勝手に作られた道も多いが、地形図に載る道も整備され通りよい
気になっていた林道藤谷線の美迫峠を通り甲山を周回してみた

近畿自然歩道で四国山や高森山に行けるがチョット体力切れの昨今だ
同じ体力レベルで白ヶ谷山を入れるのが良かったかもと反省するがまた機会を見てルートを組んでみたい
 
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 正式な駐車場は西の庄ふれあいの里が有りますが、スタートも遅く閉園時間も気になり路駐とした
又距離を伸ばして見たいとお思いなら、木の本八幡宮をスタートにしても良いのではないでしょうか

猿坂峠の道に路駐して近畿自然歩道から甲山に向かう
  
甲山付近整備は進みマア公園よりきれいで山の感じは薄いが、見晴らしは楽しめる
麓の方々の健康歩きにも人気だし、孝子駅から経塚めぐりの縦走者も多い
道成に登れば、新しい道ができたようで最短ルートと書かれこれに引かれて登った
近いと言うことは傾斜が有る
甲山近くに突き上げた

 
途中に休憩所らしいものが有った

山頂は見晴らしは最高です

山頂に二等三角点兜山が有る
標高、212.1mですが本当に見晴らしは良い
 
地形図を利用した道案内図が有ったが、外されたのか外れたのかは分からないが、椅子に持たしかけられていた 😿
近畿自然歩道で横手八幡宮に向かう
途中で団体登山者と出会った。

  

横手村八王子社は三輪明神とも言うらしい

三輪明神から車道に出れば、アララ、古い山仲間の馬〇さんに出会った

彼方此方の沢や岩ルートでお世話に有った若い方で、今はクライミングとトレランが主のようだ
話は長い

美迫峠に向かう
 
木ノ本岬線の浄水施設横から農道風の林道藤谷線に入ってゆく
  

軽四輪なら十分に通れそうな道だったがワダチは無い
日当たりの良い所では、オオイヌノフグイやホトケノザ等が咲き、春を思わせる
 

道は良い
このままだと道に竹が生えこみそうな所も出たが、道そのものは痛みは無い
池谷集落は大きな家も多い古い集落のようだが、空き家が目立った
  

池谷集落内は道の拡幅は無い昔のままだが、和歌山と繋がった猿坂峠の道は拡幅が有ったようだが、地図には反映されていない
チョット、地形図に??としたが、広い車道に出てそれを感じた
山肌に日露戦争時の慰霊碑が出て、戦死者だろう方の墓標が有った
忘れてしまいそうな戦争だが、今もロシアは戦争をしている 😿
 

猿坂峠に帰えるには時間も早い
近畿自然歩道から四国山に行ってみようと思い立ち、道標から近畿自然歩道に入るが、直ぐにやはりやめたと引き返す
 
 
それじゃ経塚二番に出て西ノ庄堡塁(グーグルは佐瀬川髙堡塁と出る)
経塚二番に向かい入るが、途中に小さな看板で高森山、展望台の案内が出た
高森山は分かるが展望台が有るのかもとここに取りついた
道は鉄塔道のようで、案外厳しい傾斜だった
鉄塔が出たが工事中だ
ヘリポートだろ上でロング休憩で行動食を取る
  

40ⅿ上で林道に出る
舗装路は嫌だと林道横の尾根を伝うが、伐採跡で行き難い、マークも消えたので林道に降りた
 

炭焼き窯


経塚二番への分岐上に二之宿観音堂が有ったようで、上に石仏が有る
分岐の炭焼き小屋の裏から行けるが、炭焼き小屋で職人さんと語らい行くのを忘れた (^_^;)

二の宿跡は整備が有る



適当に堡塁の尾根に登る
スマートに行くには、堡塁取りつきの軍道で行けば良いだろう

適当に尾根に入り西ノ庄堡塁に向かった

  

堡塁を回り込んで猿坂峠に向う

上にに倒れていた石が有る
見れば標高らしいものが書かれ、大川山堡塁で見た点石と同じだった

 

 踏み跡が濃くなっていた
地図を眺めるだけでコンパスを取らずにルンルンと下る
途中の尾根分岐で??、このような所に踏み跡が無かったはずとGPS確認で手抜きだ

  
途中で見晴らしなど出る
猿坂峠に帰るが、時間はまだまだ早い

近畿自然歩道入り口に大きな石碑が有り何を書くかは知らなかった
今回ググれば

紀泉入会解消記念碑

と出てその意味が分かった

山の境界線で300年も争っていたが、解決した話の記念碑だそうだ

薪が燃料で、キノコや山野草、動物が食料時代は山は非常に大切な生活資源だった
田舎生まれの私には理解ができる
わが裏山の大福山の村界表にもその争いの話が残っている

グーグルから

流血の三百年史に見事・昭和の裁き 紀泉國境入會の分割騒動 八箇村民が手打ち』

本文元禄時代から三百年もの長い間 松茸山をめぐって大阪五箇村和歌山三箇村が 入乱れて血眼の争いをつづけてきた 紀泉国境入会山の分割騒動は本年に入り 急速度に円満解決への朗らかなステップを踏んでいたが、十七日午後三時大阪府泉南郡東信達村楠畑において 大阪側松沢農務課長天野技師並に東信達村ほか四箇村長、和歌山側梅田林務課長、内田技師及び山崎村外二箇村長等が会合して 最後の調停を進めた結果 ついに円満に妥協成立し目出度く手打となり ここに三百年の紛糾もヤット納めの幕をおろすことになった、徳川の昔 大阪府東西進達樽井外二箇村和歌山県山崎、小倉、根来の三村 合計八箇村の村民は 共有の入会松茸山を繞り先祖相伝で争いを繰り返してきたところ 元禄十四年稲葉守の調停で境界線を定めたが、その後 明治初年に至り元の共有山となり その後農林省でもしばしば調停に乗出し 大正十五年一旦解決したが、間もなく大阪、和歌山双方がこの調停を破ったため 争いは深刻となり遂に流血の騒ぎを見るに至ったので 堪まりかねて両府県当局が一昨年来妥恊に奔走の結果 ついに今回成立したものである』(大阪時事新報記事 昭和十年 1935年5月19日付)

 
碑の前が整備され、椅子が新しくできている



マッタリと茶をのみ和歌山市内を眺めた
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