高野古道調査資料抜粋
黒河道
① 昭和初期から利用されなかったために、参詣登山者 がもっとも難儀した「いろは坂」、「外の不動堂跡」 や「岩不動」、罪人を処刑した急峻な「万丈ころがし」、 三叉路に立つ「道標」と「花折り坂」の大きな「花 立」など『紀伊名所図会』に登場する史跡を復活さ せることができ、少なくとも中世から江戸時代まで の参詣道の姿をそのままに保っていることは貴重で ある。 また、現在、不動堂から高野山駅までのバス道に よって切断されているが、「女人大門道」から不動 坂に抜ける山道も残っており、この旧道の整備は旧 街道の様子を知る上で重要である。 (3) 京大坂道 京大坂道は、近世から昭和初期まで高野登山の主 要参詣道であった。この街道は、京・大坂から高野 山に上るのに、もっとも便利で安全なルートであっ た。時間的にも町石道よりもはるかに早く高野山に 着くことができた。 この街道は、おそらく平安時代中期頃から高野参 詣の人びとが利用するところであったであろうが、 胎蔵界百八十尊を象徴する町卒塔婆が立ち並ぶ町石 道のように上皇や貴顕が必ず利用した参詣道という のではない。 しかし、この道は主要な高野参詣道を性格づけて いる条件を持っている。それは、高野山との関係を 示す丹生神社と別当寺(日輪寺)が河根に建ってい ることである。丹生神社の建立が伝承では応和 2 年 (962)とあるところから、参詣道としての成立をこ の頃に置くことができる。弘法大師入定信仰の成立 する時期に重なっている。 |
② また、日輪寺の寺伝では、江戸期の元和年間に仁 和寺宮が高野参詣の休憩所として利用したとある。 河根の千石橋の建設の逸話にあるように大名家もこ の街道を利用しており、江戸後期には貴顕庶民を問 わず、この京大坂道を利用していたようである。 なお、高野参詣道の中で丹生神社の脇を通る街道 が三本ある。一つが慈尊院の丹生官省符神社の脇を 上る町石道であり、二つが三谷・天野道の登り口に ある丹生酒殿神社の脇を上る道であり、3 本目がこ の河根の丹生神社の脇を通る道である。その意味で、 高野参詣道を象徴する丹生神社の存在と尾根道を通 る古代の道の特徴を持っていることから考えると、 この京大坂道も尾根道を通る道であることから、高 野参詣道としての成立を平安中期頃と見るのが妥当 ではないかと思う。 そして、近世の参詣道を象徴するものとして、「苅 萱堂」の存在がある。この街道には学文路に苅萱堂 が建っていた。現在はその境内地に真言宗西光寺が 建っており、千里姫の墓(宝篋印塔)がある。 明治の末に南海電鉄が椎出(高野口駅)まで通じ、 そこからかつての「まきの道」である「長坂」を上っ て神谷で京大坂道と合流し不動坂へ向かった。ほと んどの参詣者がこのルートを利用するようになる と、長坂に高野参詣道を象徴する新しい苅萱堂が建 てられたのである。 この京大坂道には、現在も参詣道を象徴するもの として弘法清水のほかに、河根の千石橋、本陣屋敷、 神谷の宿場跡、さらには参詣道を象徴する六地蔵や 道標などが残っており、高野参詣道として残すべき 価値を有している。 6 黒河道 (1)黒河道のルート 黒河は、江戸時代の絵図や文献では黒川とも記さ れているが、ここでは黒河と記名する。また高野山 では「くろこ」と読んでいる。 この道は、紀ノ川南岸の大和街道の清水・二軒茶 屋から南に下る街道である。大和方面から高野山へ は距離的には最短の道であるが、途中で丹生川を渡 るなど高低差の激しい山道を上下する為に、時間的 には京大坂道の方が早い。 |
③ このルートの拠点地をあげると、二軒茶屋から賢 堂へ、真言宗定福寺の脇を通って坂道を上り、明星ヶ 田和を経て丹生川を渡り市平、久保へと至る。そこ から西(右)に道を取ると粉撞峠を経て千手院口か ら山内に入るルートと、久保から東(左)に道をと り仏谷、黒河、黒河峠を経て粉撞峠で先の道と合流 して千手院口から山内に入るルートがある。 ところで、この道のルートと名称を決定すること は難しい面がある。文献や古地図、古絵図などに見 られる峠や口の位置と名称が一定していないからで ある。例えば、高野山絵図によっては、黒河峠の位 置が楊柳山の東(右)にあったり西(左)にあった り、あるいは同じ口の記述が黒河口であったり仏谷 口であったりするからである。 また、当然と言えば当然であるが、高野山側から 見た絵図にはまったく記述されていない里道や峠が 久保や黒河側から記述された絵図では描かれていた りする。そのようなことから、このルートを決定す るとき、他の街道では想定できない作業として、高 野山側の史料だけでなく黒河村や久保村側の絵図や 史料などから総合的に記名と呼称の調整をする必要 がある。 (2)文献史資料上でのルート 一般に、黒河道あるいは黒河口と呼んでいる道は、 人びとが黒河村方面から高野山内に入ってくる街道 であると理解している。基本的にはこの理解で正し いであろう。しかし、高野参詣道としての黒河道の ルートを具体的に確定するとなると、一筋縄ではい かない問題が出てくるのである。 例えば、高野山側では、大和街道から清水の二軒 茶屋、賢堂から久保小学校の北側に立つ「右かうや、 左まにん 道」とある道標を「左まにん道」の方向 にとり、黒河村、平村を経て楊柳山の東の黒河峠(口) から高野山内千手院口に入る街道を黒河道と決めて いる。しかし、この説では久保小学校の道標が「右 かうや道」とあるにもかかわらず、どうしてその指 示を無視しなければならないのかがわからない。 このような疑問を考えるとき、これまでの理解(常 識)が確実な史料にもとづいて実証的に理解して来 たのかを考える必要がある。もちろん先ほど述べた |
④ ように、そもそも何が確実な史料であるかを決定す ることが困難であるにしても、現在残されている史 資料を原点にルートを考える方法は妥当なやり方で あると思う。 その結果、久保小学校の北側に立つ道標の指示に したがって、道を右にとり粉撞峠を経て千手院口に 入る道は、厳密には黒河道あるいは黒河口ではなく、 清水と高野山を結ぶ高野街道である。峠は楊柳山の 西の粉撞峠であり、口は大和口というべきである。 実際に、粉撞峠のところに大和口と記している絵図 があったり、久保小学校作成の地図に「旧橋本高野 街道」とあるところからもこの理解が実証的に妥当 であることがわかる。 黒河村は、伝燈国師真然大徳の頃(9 世紀後期) に高野山建設に従事した人たちが住み着いた集落で あることからも、高野山との関係は密接であり、「日 常のほとんどの買い物は高野山であった」という聞 き取り史料からもわかるように、黒河村や仏谷村な どは高野圏の集落であったのである。江戸時代には 「番太」の屋敷があったことからも、高野山にとっ |
⑤ て古くから重要な地域であったことがわかる。 また、黒河村の人たちは「御番株」という役目で 高野山奥之院燈明の油の補給を担当していたことが わかっている。その対価としてお供物や下燈などの さがり物に恵まれていたことが文献に見える。黒河 口や峠は、おそらく毎日のように黒河村や仏谷村の 人たちが通った峠であったのである。 橋本や大和方面からこの道を取ったとき、参詣者 が久保の三叉路を右ではなく左にとり黒河村を経て 黒河口や峠から高野山に入ったことも当然である。 しかし、黒河村の人たちが参詣のために峠を越えた ことは考えられない。彼らは日常的には明らかに高 野山を支えるために黒河道を通ったのである。 しかし、清水の二軒茶屋から高野山に向かい、久 保の道標を右手にとり粉撞峠を越えて高野山内に 入った人たちは、明らかに高野参詣を目的としたこ とは明らかである。そうすると、雪池山(銅岳・あ かがねだけ)の西を通る久保からの街道(高野街道) と黒河道が合流する粉撞峠こそがこの黒河道を参詣 道にしている峠であることがわかる。この峠の重要 性を証明しているのが粉撞峠の地蔵菩薩立像石仏の 銘文である。そこで、この銘文の年代を考えながら、 この街道の参詣道のルートを確定して見たい。 銘文は、「香舂峠、永正九 八月廿二日、[ 上部欠 ] 十三年、検校重任」とある。香春峠は「こつぎとうげ」 と読むのであろうが、文献的には粉撞峠、粉突峠と もあり、現在は子継峠と表記している。永正九年は、 西暦 1512 年である。500 年前に高野山の検校(座主) 重任が造立したことがわかる。この地蔵菩薩像は、 明らかに境界を区切る峠の地蔵尊である。 この地蔵尊の存在は、何を明らかにしているので あろうか。すなわち、室町時代中期には、二軒茶屋 から高野山に向かい久保から粉撞峠を越えて高野山 内の千手院口に至る高野街道が成立していたことを 示しているということである。この時から 82 年後、 当時の最高権力者が実際にこの街道を高野山側から 清水の二軒茶屋に向かって駆け下りた。このことか らも、この街道がすでに高野参詣道として成立して いたことを証明している。この最高権力者とは、太 閤豊臣秀吉である。 |
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⑥ 太閤秀吉は、文禄 3 年(1594)3 月 3 日、高野山 に登山したとき、六日に歌舞音曲を禁じている山上 で能楽を催した。そのためか、辺りが暗くなり、豪 雨と共に雷鳴がとどろいた。恐れおののいた太閤秀 吉は、馬に乗り、千手院口から粉撞峠を経て清水ま で駆け下りたという話が残っている。太閤秀吉が粉 撞峠の地蔵菩薩像の側を通って雪池山の西側を下っ ていることは、この遁走の道がすでに高野街道とし て利用されていたからであり、馬道としても利用で きたからである。そこで、『紀伊続風土記』などの 記事を参考にこのルートをたどってみたい。 それによると、太閤秀吉は、粉撞峠を越えて雪池 山の西側の道を真っ直ぐに駆け下り、久保村から山 道すなわち「姉子谷」「美砂子谷」「太閤坂」を通っ て市平に出て、「太閤の馬渡し」で丹生川を渡り、「わ らん谷」(蕨谷)の道を通って明星ヶ田和を経て賢堂、 二軒茶屋に下ったとされている。この道が太閤秀吉 が選択した高野街道であったのである。現在の黒河 道である市平から青淵へ回り、「わらん谷」東側の 尾根道を通り明星ヶ田和に至る高野街道と区別する ならば、「太閤道」と呼ぶ方がいいのかも知れない。 現在の地図では、「わらん谷」の道は消えているが、 江戸時代の道路絵図や明治 41 年の地図では街道に 相当する道が記入されている。青淵から明星ヶ田和 への尾根道は、大正時代には「わらん谷横手」と記 述されているところから、明らかに「わらん谷」道 の脇道であったことがわかる。「わらん谷」道が沢 に沿っているために消えたのに対して、この横手道 は、尾根道のために消えることなく現在も使われて いるのである。 (3)黒河道の姿 久保の道標を右手にとり雪池山の西側を上り粉撞 峠すなわち大和口へ出る道には、久保を過ぎて茶堂 (おめん茶屋)があった。現在、その遺跡が残って おり、お堂にあった弘法大師像や不動明王像は現在 もある。参詣人を受け入れる茶屋と大師像などの存 在は、粉撞峠の地蔵尊の存在と共にこの道が高野参 詣道であることを証明していると見てよい。 したがって、高野山側からは黒河道として捉えら れている道は、仏谷や黒河村から楊柳山の東(右) |
⑦ の峠に出る道という認識が強いにしても、雪池山(銅 岳)を西(東江村)から見た絵図(元禄年間作成) や九度山町史などでは、そのようなルートにはなっ ていないことがわかる。 すなわち、黒河から平を経由するのではなく、実 際には急峻な坂道を上らなければならない平村を避 けて、黒河村を過ぎて西(右)へ山道を取り、雪池 山(銅岳)の東にある「ひうら坂」を経て黒河峠か ら粉撞峠で久保からの道と合流して千手院口へ入っ ていたのである(この黒河峠は、高野山側からは楊 柳山の北側になるので見えない)。黒河道は、黒河 村を経由する道と粉撞峠・大和口で久保村からの道 と合流する道として認識されていたのである。これ は、『紀伊国名所図会』の説明でもある。 いつの時代もそうであるが、遠方から来る旅人は、 知らない村々を通過する時、相当緊張するものであ る。古い街道は、山辺の道が代表するように、村の 中を通るのではなく山側の外れたところを通ってい る。参詣道を考えるとき、このことも考慮する必要 がある。遠方からの旅人は、道標の指示に従ったり、 旅人用の施設がある道を選ぶのである。 久保の道標が「右かうや道」「左まにん道」とあ れば、黒河村に用事がないかぎり、「右かうや道」 すなわち在所の人びとが高野街道と呼ぶ道を選択 し、五百㍍ほど行くと傍らに「尾領松」が立ってお り、大きな鍋から道ゆく参詣者に振る舞われるミソ 汁の湯気が上がる茶堂で休息し、石の弘法大師像や 木造不動明王像にここが高野山の麓であることを実 感し、この道が高野参詣道であることに安心したの ではないだろうか。 その意味で、黒河道の理解は、黒河村からの道に 限定するのではなく、久保村からの高野街道を通る 道も含めて、黒河村を経由するしないを問わず、久 保から来る左右二つの街道が一つとなって粉撞峠か ら高野山内千手院口に入る道として捉えておくのが 正しいと思う。江戸時代の高野山絵図の中に粉撞峠 を黒河口や大和口と記述していることからもこの理 解で妥当であると思う。 |